2015年11月16日月曜日

高校演劇の大会

私は審査した事は無いが、高校演劇大会の審査は、なかなか難しい。
確たる事は言えないが、理由を考えてみた。


1.ジャンルが多い
2.判断基準を定量的に表すのが難しい
3.判断基準が多岐に渡る
4.審査員が何を正とするか、の基準が別れる


1.ジャンル
例えば喜劇や悲劇、静かと賑やか、古典と前衛、どんな方向性も全て許容している。
よく出来た喜劇とよく出来ていない悲劇を比較すれば、多分よく出来た喜劇が勝つ。
しかしどちらも良かったら判定は難しい。

2.定量的な判定が困難
発声がいい、悪い、という基準があったとして、何dB出ているか、というような
計測器で測れるものではない。 また、セリフが1000個あって、うち聞き取れる
のが900個ありました、などというようなカウントをするのは不可能。

動きで考えれば、舞台上の動きは1つの舞台で何万という動きがあるので、そこで
早い、遅い、タイミングがあっている、バランスがいいなどという細かい採点は
不可能。 そもそも早い方がいい場合と遅い場合がいい場合、どれが正しい
動きである、という、定量的な判断基準を作り出す事自体が不可能。

表情、声のトーンなど、含めて、単純に演技だけ見ても定量的な審査が不可能。

3.判断基準が多岐で膨大
総合芸術である演劇は、総合性から考えて、良さという曖昧な概念で
判定せざるを得ない。例えば舞台セットが良かった、ちぐはぐだった、などという事も
含めて、見る評点が多い。 その上で、何について重みをつけるか、も難しい。

どのように演じるか、という演技力と、演出上の構成をどちらに重みをつけるか。
難しい。

4.審査員の判断基準
上記のように膨大な判断を時事刻々としていかなければならないから、
審査員は自分の持っている判断の軸でしか判断しにくい。
他人のもってきた判断基準での判断は難しい。

5.とりまとめて
こう考えていくと、どちらかというと審査員というのは、演出家としての作業を
しているに近い。 演出は見た結果をもって修正までするが、審査員は見て判定だけ
する。 いずれにせよ、見て判定、という事は同じ。 しかも作り手の意図を考え、
果たして役者や演出が、どのような意図をもって舞台を作り、その意図を実現できている
か否かを判断する、という点ではかなり共通点を持っていると思われる。





2015年11月10日火曜日

高校演劇の特性について

高校演劇の指導(というにはおこがましいかもしれないが)を初めて5年程になる。

1.取り巻く状況と条件について、明らかにしてみた。

(1)期間が限られている
 1年生で初めて、大体2年で終わるので、ノウハウが蓄積しにくい。
 中学から始めた人や中高一貫高ではまだ少しは準備期間があるが。
 一般の演劇では期限という物があまりない。(もちろん個人のスケジュール
 という物は存在するが)

(2)学生主導が規定となっている。
 特に演出はノウハウの塊だと思われるが、それを経験の浅い
 2年生がやる事が多い。
 ただし、脚本や、指導については学生で無くても許される。
 また、例えば吹奏楽であれば指揮者は学生で無くても許される。

(3)いわゆる「学生らしい」演目が上位に行きやすい
 これは規定で有るわけでは無いが、そのような傾向が見える気がする。
 これはあくまで私の感覚。









2015年11月9日月曜日

脚本を書くときの視点

やはり脚本がうまくかけない。

内的整合性、論理性を重視するため、ラストから物語を作り始める。
そうすると視点が神の視点となり、主人公なり登場人物なりの
生の感情が出てこない。

で、神の視点でなくするにはどうすればいいか?
視点を狭くするために、己の目を塞ぐのはあまりにも技巧的すぎる。

さて、もう少し考えてみると、自分の年齢、経験、立場と、登場人物の状況との
違いが問題なのかもしれぬ。
登場人物の年齢設定やその場の状況にあれば、今の自分の状況とは
全く違う視点、全く違う感情が出てくる筈。

その場で生きるのは登場人物で、そのシチュエーション自体が先が見えない
状況ではあるのだが、そこに放り込まれた登場人物も、今の自分とは違う。

経験、未経験
平穏、怒涛
平静、苦痛
余裕、焦燥
ホルモンの安定、不安定
老齢、若さ

全てが不安定な世界に放り込まれた人間の感情を表せればいいんだと思う。


2015年10月3日土曜日

ツィッターで世界がどんどん狭くなる

ツィッターを初めて2年近くなる訳だが、以前から薄々感じていた事。
他のSNSも同様だと思うが、他はほとんどやっていないので、
ツィッターでの感想。

ツィッターは便利。
自分の興味が有ることはどんどん情報が入ってくる。
興味がある事の共通の知り合いも増えてくる。
遠くの知り合いも増えてくる。

するとますます自分の興味がある分野の知識が増え、コミニュケーション量が増える。
素晴らしい。

しかし、だ。
全ての事には良い面と悪い面がある。

人間の持つ時間は有限なので、今までシェアしていた、自分に興味が薄い
他の情報を入手する機会が減ってくる。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアから知識を得る時間も減ってくる。

スケジュール管理もばっちりだから、街を歩いても、目的地に一直線。
必然的に他の事をしている時間が少なくなる。

時間が余ったらツィッターで情報を得て、これから行きますなう、をやる。

だから、隣にいる、ツィッターをやらない人と話をする機会が減る。
雑多な情報を、新しい情報を入手する機会が減る。

世界にとっての世界は変わらないが、自分にとっての世界がどんどん狭くなる。

それをわきまえて使っていきたいものである。

2015年9月14日月曜日

脚本の作り方

どうやって書けばいいか?

2つの対立した正義をつくる。

例えば
兄弟二人がいる。離れ離れになり生い立ちが違う。

離婚した夫婦。母と暮らす弟。父を助ける姉。

どちらも正義。

人の人生は有限だから、その中で有限な正義しか持てない。
それがぶつかるとき葛藤と悲劇が。


また喜劇にもなりうるかもしれない。


2015年8月13日木曜日

成長における形態と社会組織の形態

生物が成長の過程で、形ができてくる。

体内の物質の濃度勾配とかが原因で。

人間関係もそういう事は無いか。
人間関係もコミニュケーションの伝達速度は有限である。

また伝達の深さも有限である。

だから距離が遠いと立場が変わり敵になったりもする。

2015年7月26日日曜日

2chを見て

悪意だけで人は死んでしまう。

悪意のある言葉を投げつけられただけで人は死んでしまう。

言葉はただの信号なのに、なぜだろう。
でも、本当の話。


特に親からの悪意は、もしくは、親からの無関心は酷い苦しみを子供に与える。

人はコミニュケーションにより大きく影響されるって事か。


虎は群居動物では無い。
他の虎から吼えられても虎は死なない。と思う。

親虎から育児放棄されたら子虎は死ぬ。
それは具体的に放棄されたら、だが。





2015年7月14日火曜日

脚本の書き方(デスノートを見て)

脚本が苦手である。

なかなかうまく書けなかった。

一つ判っていた事は、脚本の内的必然性があること。

たとえば、A、B、Cという因果関係で話が進みラストDになる、という事。

また、脚本=セリフという図式で考えると、セリフを大量に書く必要がある。

では、セリフというのはなぜ生まれるのか?

①それは対立から生まれるものだと思う。
例えば喧嘩している。

②もしくは情報を交換するために生まれる。
例えば知らない二人がお互いを知ろうとして会話している。

という事は、立場が違う二人以上の人間が必要となる。

それはいい。
しかし、それ以上が進まなかった。

つまり、因果の必然性を、自分もしくは観客が既に知っているとすると、
別に会話する必要性が無い。だからセリフを書こうという気にならない。

立場としたら、脚本家としては物語を外からマクロ的な見方で見ていたわけだ。

しかし、最近思うのは、観客はストーリーと供に、情報を小出しにされるわけだ。
というか、小出しにして良い、訳だ。

100の情報のうち、30提示されたら、残りの70を知りたくなる。
それが、人間の社会的な本能なんだろう。
例えば推理ドラマでは、犯行があって犯人が後からわかる。
もしくは犯人がわかって、犯行動機があとからわかる、とか。

ディズニーランドに行き、アトラクションで色々探検して、最後に謎がすべて解ける、
という感じか。

またはこういう事か。
なぜ対立するか? お互いがお互いを充分に知らないから対立する。
そして、お互いを知って和解する。
つまり、不完全な情報による対立。

もしくは、最初の状態で、登場人物がベストと思う行動をする。
しかし、時間が経つと状態が変わる。 だから、最初に取った行動は
今のベストではない。

例えば雪山に行く。 晴れた、と思って下山しようとするとまた吹雪で遭難、とか。
それはベストだと思わずにただ遭難、というより、劇的な感じがする。
ベストと思い行動するのは幸せ、望み、希望。 でもそれにより結果は悲劇。
そういう事は現実では良くあるが、それは見ていてとても悲しい。
つまり、時間により状況が変わる事による対立。
時間が戻らない、という事による、今の自分と将来の自分との対立。


上記3要素を上手く組み合わせると、しっかり脚本がかけそう。

まとめると
①情報を観客(もしくは登場人物に)小出し。情報不足による対立。
②時間により状況が変わる(過去と未来の対立)









2015年7月1日水曜日

表現と現実

表現は表現だけ、ただの形で本質とは関係無い、という事はない気がしてきた。
(ケースバイケースで、度合いもあるけど)

例えば言語学で、言語表現が民族の生活から影響を受けていたりする。

逆に言語から生活が見えたり。


私の仕事で言うと、例えばハードウエア設計をする時に、図面の書き方で設計の効率が
全く変わってくるし、製造の効率も変わってくる。

ソフトウエアでは言語や環境が生成効率に深くかかわるのは周知の事。

表現は本質とは関係が無いはず、なんだが、結局はやはり深くかかわる。

つまり、表現したり受け取ったりするのは人間で、その人間は有限な時間と有限な能力で
その表現を見たり理解したり作ったりするわけだ。
だから、その授受の効率で結果が変わってきたりする。

生物と無生物の間、という本で書かれているのは、生命はプロセスである、という事。

これはこの表現のしかたによる効率に深く関連しないか?

例えば脚本を書いたとする。

良い脚本が良い演出を生み、良い演出が良い演技を生む、という仮説が成り立たないか。
(何が良いかは別として)

特に演劇はプロセスが大事な気がする。というかプロセスそのもの。

2015年6月21日日曜日

演技するって

結局内容はどうでもいい気がしてきた。

人は所詮声高にセリフを喋りたいだけなんだろう。
そして、そのテーゼが人にうまく伝わると、というか、人にうまく伝わると、自分が納得できるような
セリフを言えればそれでいいんだろう。

人は愛されたい、認識されたい、受容されたい。

無価値で意味の無い存在である事が耐えられない。

だから声高にセリフを喋る。


例えばスポーツでもいい。
贔屓のチーム、例えば日本代表がいたら、それについて、色々言う。
そして勝ったら自分の事のように偉ぶる。

自己愛。

しかし、その愛というのも結構マユツバで、本当に自己愛なんていう物はあるのか、
という疑問もある。

実際は生ぬるいものではなく、暖かいものでもなく、もっと機械的な側面もあるのかもしれん。

人間が世の中を認識する、あるいは人間以外の動物でも同じかもしれないが、
そのためのよりどころ、座標、ものさし、となるのがワタシなのだろう。

われ思うゆえに我あり。

われ思うゆえに世界あり。


われがなくなっても世界は存在するが、世界を切り取る意識はわれという自意識がないと
世界を認識できない。
全て愛他精神、自己を全く愛する姿勢が無かったら、多分世界を認識できない。

極端な話、生きる、食う、ためには競争しなければならず、他者を自分より重く
置いたら即座に人は死ぬ。

だから人が生きていく座標軸、ものさし、が自己愛なのかもしれん。
当然、座標は一軸でなく、他者という二軸目もあるかもしれないが、
一軸目が無い二軸は無い。

2015年6月17日水曜日

重要感

営業の本より。

誰も彼も、みな重要感に飢えている、というテーゼ。

例えばツィッターで、何かキーワードを入れてつぶやく。するとそれに反応して
フォローしてくれたり、リプライ返してくれたりする。


重要感とはなにか?
世界にかかわっている、尊重されている、尊ばれる、関心を持たれる。

だから、自分が関心を持っている事を誰かがつぶやくと、
「呼んだ?」
って言う事になる。

人は自分が無価値であるという自己認識に耐えられない。一般に。

だから関心をもたれたい。

愛の反対語は無関心だと言う。
関心を持つ事は、相手を尊重する事、認識すること。



コミニュケーション

ツィート見て。

妹んちにあった少女漫画色々読んでいて思ったんだけど、登場人物は全員もっと「報告」「連絡」「相談」を徹底すればそんな様々なすれ違いは生じないし、誤解も生まれないし、感情的になって思わずひっぱたいてしまったりすることもなくなると思う。あと少女漫画もなくなると思う。

その通りだと思う。
仕事していて思うのは、意思疎通の難しさ。
言葉は共通の土台が無いと通じない。
話せばわかる、という言葉は、話せばお互いの違いがわかる、程度。

話しても合意できるとはかぎらない。
その上、意志がなかなか伝わらない。真意が伝わらない。
会話していても、長くながく、じっくりと喋らないと伝わらない。

しかし、人間の時間は有限。だからわかりあう前に、会話を切り上げてしまう。
わかったと思いたいんだと思う。わからない事は面倒だから。
わからない、という事が不安だから。だからわかった気になるように
したい、という本能が働くんだと思う。 わかるエネルギーを最小にしたい
というものぐさな志向。

認知の枠組みも、第一印象バイアスがかかる。
たとえば「好きな人」「嫌いな人」という枠組みがあれば、その上に乗った
相手の言葉の認識も適当にすませる事ができる。
そのものぐさ志向がわからない、を増加させているのだろう。

2015年6月15日月曜日

信頼とはなにか?

信じていた人に裏切られる。ショックである。
どこの国でも、どのシチュエーションでも人間が共通して抱く心理である。

しかし、それはなぜだろう?
信じるとは?裏切るとは?

約束していた事をたがえる。
予期していた行動をしない。

例えば浮気がばれた、としよう。 別に物理的に被害をこうむる訳ではない。
しかし、浮気された方は非常なショックである。
ばれる前と後とまったく物理的な差は無い。
しかし、「知る」という事で、ものすごいショックになる。

人間に共通の現象であれば、動物でも同様の心理があるのか?
犬が飼い主から捨てられたら、犬はショックを受けるのか?
受けそうである。 しかし、能動的に捨てたのか、ただ別れ別れになった
だけなのかがわからなかったらどうなのだろう。 ただ別れ別れになった
だけならば悲しいけれど、それは何か救いのある悲しみだと思う。

しかし能動的に捨てられた場合、もっと根源的な苦しみを感じるような気がする。

いじめ

一般論で言うと、人は弱い。
自分と他人を比べて自分が被害をこうむる可能性があると、他人を犠牲にする。
強い人もいる。 また、他人が迫害されたとき立ち向かう場合もある。
しかし、100%の割合ではない。
そこで犠牲になったものがイジメの対象になる。

いじめとは渦のようなものか。もしくは正のフィードバックによる共振振動系のような感じがする。
例えばAが犠牲になりかけた場合、それが加速される雰囲気にあると、
犠牲者へのイジメが増強されていく。 ひとたびそれが開始されるとどんどん加速する。
そしてあるピークを過ぎると(例えばいじめられた方がいなくなるとか)すると
次の犠牲者候補がターゲットとされて次々にそれがくるかえされていく。


正のフィードバックでなく、負のフィードバックが働くと、安定系になる。
その場合、最初にイジメのバイアスがかかり始めても、それに相対する
エネルギーが発生し、そこで安定する。



2015年6月14日日曜日

がっちりマンデー・ショップジャパンを見て

社長がアメリカ人(元アメリカ人か?)のせいなのか非常に合理的。

合理的だから成功したとは限らないし、合理的が全てとは限らないが、
いわゆるアメリカ的合理主義と感じた。

例えば外国で売れた商品を売る。
日本で売れるかうれないか判断して、失敗しないように売るのが日本的発想。
しかし、それはやってみなければわからないから、とりあえず売る、判断は消費者、
という発想でショップジャパンはやってきた。

つまり、失敗しないようにコストをかけ、時間をかけるのが日本流
失敗してもそのロスを最小にしておいて、数を打つというのがアメリカ流

太平洋戦争の飛行機の特攻をミサイル弾幕で落とすという発想だ。
当てるのが難しい。 無理だ。 だから死角を無くすようにする。



商品も日本向けにカスタマイズする。
通販番組のビデオも日本向けにカスタマイズする。

そして、それを取り合えず出す。 練りに練ってだすんではなさそう。
取り合えず出す。 そして、徹底的に冷徹な位合理的に消費者の反応を受ける。
受けた反応をすぐ商品や番組に反映する。

そしてまた消費者の反応を受ける。


今までの自分の生き方、ザ・日本人。 ザ・職人のような自分の考え方に
疑義を抱き始めた、今日の感想。 おもしろかった。



食べられる豚の知能

豚は猿並に知能があるから食べるな、という主張を聞いた。

「ブタはチンパンジーやイルカ並みに高い知能…食肉用動物としての扱いを再考する必要がある」

http://news.discovery.com/animals/iq-tests-suggest-pigs-are-smart-as-dogs-chimps-150611.htm

殺す、食べる。殺して食べる。

生きるために必要なこの行為と、倫理という物、人間の持つ社会性との対応で
ぶつかっているのか。

そもそも生きるために殺すという行為、それと殺される側の知能は関係が無い。筈。

しかし、人間が持つ社会性の本能が、人間以外の物にまで拡大解釈されてしまうと
このような事になる。

それこそ、知能が低ければ殺していいのか、という論理。



最近ネットの情報により動物の持つ知能や悟性が従来知られている以上に高い
という事が市民権を持ち始めているように思う。

また、同時に、野生では捕食関係にあるペット同士(猫とねずみ)がペット同士だと
共存していたりする事例も良く見られる。

ある意味、衣食足りて礼節を知る、の動物版という所だ。

しかし。
ペットは餌を食べる。 その餌は動物を殺して(例えば魚を殺してとか)出来ているわけだ。

野生では動物AがBを食べている。

人間のペットAとBが別の動物Cを仲良く食べあっている。

こういう図式。 まあ、AとBはCを殺して食べている、という認識は無いかもしれないが。






ハラスメントについて

ハラスメントという言葉がある。

今まで概念化されていなかったが、現在はあたりまえのように周知さている。
しかし、その実態は何か?
明確な定義が難しいのではないか。

たとえば、犯罪で言えば意図と行為だと思う。

暴力を振るいたいという意図があっても犯罪にはならず、
暴力を振るっても意図が無く過失であれば罪は軽くなる。
つまり意図と行為の関数と考えられる。
(これが宗教的に考えれば、意図があればすなわち罪になるのかもしれないが。)

さて、上司や教師や配偶者が相手にした行為がハラスメントとして認定されるやいなや?

相手に触るセクハラは外部から認定されやすい。カメラに撮影できるから。
しかし言葉でするセクハラは? 
コミニュケーションを円滑にしようとしたシモネタは?
結果が嫌がられればセクハラだとされる。

逆に立場が強い人間がセクハラのつもりで言っても、ウケル方が楽しければ
それはただの楽しい関係。(そんな場合はレアケースだろうが)

心の状態を外部で判定するから難しいのだろう。




インド楽器タブラの演奏を見て

今日見たのは題名の無い音楽会。
インド音楽でのタブラという楽器。
打楽器だのだが、そのたたき方が色々あり、その音程など、多種多様な組み合わせがある。
これを言葉に対応づけしている。

で、それを鳴らすときに、これこれこういうフレーズを鳴らすとか、
他の奏者とセッションするときに、これをならそう、とか、これでどうだ?
という事を言葉で話ができそうである。

例えばセッションを行う時は、奏者のライブ感覚でその時々に刻々変わる状況で
作曲していく訳だ。

その時、演奏するのと同じ時間がかかったのでは、例えばAかBかCかのフレーズを
選択する時に、3倍の時間がかかってしまう。

それを言葉に割り振って、つまりコーディングする事で、AかBかCかを奏者同士で
意志伝達する事ができ、その選択が一瞬で済む。

それがコーディングするという意味、効果である。


また、コーディングは言語と相性が良く、言語は記録とも相性がいい。
だから過去の音を記録する事ができる。これがいわゆる楽譜である。