2015年7月26日日曜日

2chを見て

悪意だけで人は死んでしまう。

悪意のある言葉を投げつけられただけで人は死んでしまう。

言葉はただの信号なのに、なぜだろう。
でも、本当の話。


特に親からの悪意は、もしくは、親からの無関心は酷い苦しみを子供に与える。

人はコミニュケーションにより大きく影響されるって事か。


虎は群居動物では無い。
他の虎から吼えられても虎は死なない。と思う。

親虎から育児放棄されたら子虎は死ぬ。
それは具体的に放棄されたら、だが。





2015年7月14日火曜日

脚本の書き方(デスノートを見て)

脚本が苦手である。

なかなかうまく書けなかった。

一つ判っていた事は、脚本の内的必然性があること。

たとえば、A、B、Cという因果関係で話が進みラストDになる、という事。

また、脚本=セリフという図式で考えると、セリフを大量に書く必要がある。

では、セリフというのはなぜ生まれるのか?

①それは対立から生まれるものだと思う。
例えば喧嘩している。

②もしくは情報を交換するために生まれる。
例えば知らない二人がお互いを知ろうとして会話している。

という事は、立場が違う二人以上の人間が必要となる。

それはいい。
しかし、それ以上が進まなかった。

つまり、因果の必然性を、自分もしくは観客が既に知っているとすると、
別に会話する必要性が無い。だからセリフを書こうという気にならない。

立場としたら、脚本家としては物語を外からマクロ的な見方で見ていたわけだ。

しかし、最近思うのは、観客はストーリーと供に、情報を小出しにされるわけだ。
というか、小出しにして良い、訳だ。

100の情報のうち、30提示されたら、残りの70を知りたくなる。
それが、人間の社会的な本能なんだろう。
例えば推理ドラマでは、犯行があって犯人が後からわかる。
もしくは犯人がわかって、犯行動機があとからわかる、とか。

ディズニーランドに行き、アトラクションで色々探検して、最後に謎がすべて解ける、
という感じか。

またはこういう事か。
なぜ対立するか? お互いがお互いを充分に知らないから対立する。
そして、お互いを知って和解する。
つまり、不完全な情報による対立。

もしくは、最初の状態で、登場人物がベストと思う行動をする。
しかし、時間が経つと状態が変わる。 だから、最初に取った行動は
今のベストではない。

例えば雪山に行く。 晴れた、と思って下山しようとするとまた吹雪で遭難、とか。
それはベストだと思わずにただ遭難、というより、劇的な感じがする。
ベストと思い行動するのは幸せ、望み、希望。 でもそれにより結果は悲劇。
そういう事は現実では良くあるが、それは見ていてとても悲しい。
つまり、時間により状況が変わる事による対立。
時間が戻らない、という事による、今の自分と将来の自分との対立。


上記3要素を上手く組み合わせると、しっかり脚本がかけそう。

まとめると
①情報を観客(もしくは登場人物に)小出し。情報不足による対立。
②時間により状況が変わる(過去と未来の対立)









2015年7月1日水曜日

表現と現実

表現は表現だけ、ただの形で本質とは関係無い、という事はない気がしてきた。
(ケースバイケースで、度合いもあるけど)

例えば言語学で、言語表現が民族の生活から影響を受けていたりする。

逆に言語から生活が見えたり。


私の仕事で言うと、例えばハードウエア設計をする時に、図面の書き方で設計の効率が
全く変わってくるし、製造の効率も変わってくる。

ソフトウエアでは言語や環境が生成効率に深くかかわるのは周知の事。

表現は本質とは関係が無いはず、なんだが、結局はやはり深くかかわる。

つまり、表現したり受け取ったりするのは人間で、その人間は有限な時間と有限な能力で
その表現を見たり理解したり作ったりするわけだ。
だから、その授受の効率で結果が変わってきたりする。

生物と無生物の間、という本で書かれているのは、生命はプロセスである、という事。

これはこの表現のしかたによる効率に深く関連しないか?

例えば脚本を書いたとする。

良い脚本が良い演出を生み、良い演出が良い演技を生む、という仮説が成り立たないか。
(何が良いかは別として)

特に演劇はプロセスが大事な気がする。というかプロセスそのもの。