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2021年4月11日日曜日

清水眞砂子さんのお話

ゲド戦記翻訳された、清水眞砂子さんのお話をTVで聞いた。

ゲド戦記の翻訳者としてしか知らなかったが、とても興味が持てた。

満州生まれだったこと。引き上げで幼少期に死と隣り合わせの

体験をしたこと。学生時代の事。

教師をしていたが、ゲド戦記と出会って翻訳家への道へ進んだこと。

児童文学を書きながら翻訳をしていたこと。

でも大学でも教えていて、若い人との触れ合いで様々な気付きを得たこと。

難しい単語を並べる事なく、しかし、一言一言が深く納得できる話だった。

年を経てもしてしまった失敗の話とか、学生から腑に落ちる答えが出てこないのは

正しく質問をしていなかったとか。

最近自分も感じる事を言葉にしてくれる思いだった。

老いるという事のマイナスとプラスとか。

日常での何気ない普通の凡庸な事柄がいかに大切な貴重な事という気づきとか。

言葉と教育の現実とか。

今自分がやっている学生との交流は間違いでは無い事を後押ししてくれた気がする。

彼女とはほぼ20歳違いだし、戦争という極限の体験の有無からして、

悟りの深さはまだまだ足りないのかもしれないが。

それでも深く共感ができる話ばかりだった。

彼女の話をもっと聞いてみたい、そんな気がする。

彼女だけではなく、年輪をもった人々の話をもっと聞かなければ

ならないのではないか。

今の社会は(いつの世でもかもしれないが)若さとか強さとか速さとか

目先の事ばかり追求しているが、もっと根本を見据えた真に賢い言葉と

行動をなおざりにしては行けないのかもしれない。





2020年3月14日土曜日

コビッド19、演劇、人との繋がり

1.一般論
野田秀樹さんの「演劇の死」発言。

高須医院長が、公演やらなくても演劇は死なない、って言ってたけれど、
これは多分感覚の違いだと思う。
公演やらなくても人は物理的には死なない。
だが「演劇」っていうものは、コミニュティであり、文化であり、関係性
であり、情報が飛び交う一種擬似的な生命体だと思う。

例えば、コビッドにより高須クリニックの建物に入れなくなっても、
社員や患者や関係者は死なない。しかし法人としての会社は倒産するだろう。
それは法人の死だ。それと同じ。

例えばスペイン風邪と同じく2年間パンデミックになったとする。
公演ができなくなる
→生活のための仕事ばっかりやってて演劇から遠ざかる
→芝居のノウハウが無くなっていく。技術も低下する。
→観客も見る習慣がなくなる。
→公的な補助金や助成システムも申請されなければ無くなる。
こんな図式が見えてくる。

2.アマチュアについて考えてみよう。

人はなぜ演技をするのか。演劇をやるのか?

他人ともっとうまく繋がりたい。
成長したい、弱い自分を変えたいなどと言う、漠然とした思いはあっても、
人はそれほど強くないから、そのままではうまくいかない。
その手助けを演技が、演劇がやれる、のではないか。
自分という殻を演技という事で破れる事がわかるから。

例えば公演をやるとする。でも危険だから中止になる。
練習のために集まる。危険だから、と中止になる。
健康、安全、生きるためには遊びなんか諦めろ、と言われる。
言われなくても、周りが、社会が、ネットが、マスコミがみんなが言う。
遊びなんか我儘だから諦めるしかないかな、って思う。


3.自分のこと
俺は演劇作るのが好きだ。なぜか?
喋る、見る、近づく、怒る、笑う、泣く、動く、走る。
リアルな人を見る、それが演劇。
俺の場合はそれにプラスして、というか、それと同じ比率で、「作る」のが好きだ。
考える、知り合う、繋がる、協業する、助けられる、助ける、作る。
作る過程が面白い。
そして、人を育てる。方法を考える、育った人が見事な演技をする。
その成果を見るのは無上の喜び。

コビッドはそれを阻害する。
公演の機会を阻害する。
作る過程も阻害する。
人の成長の過程も阻害する。

もちろん、演劇だけでは無い。
音楽だって、ダンスだって、スポーツだって、みんなそうだ。
リアルでは一人での作業、ネット配信、小説、絵画、登山、などは
まだ少しは危険性が低い。
でも、特にリアルに人と一緒になってやることは、
その全てが阻害されてしまう。

どうすればいいんだろう?
ただ黙って耐えるのか?

他人を危険にさらす、と言われながら(思われながら?)
芝居をするのか?練習をするのか?教育をするのか?公演をするのか?
なにか別のチャネルを見つけるのか?

見えない・・・

2019年4月28日日曜日

映画「テス」。愚かな、愚かな人間。

見終わって。
実話かと思うほどの重厚さ。
映画としての絵は美しいのだが、そこにカタルシスは無い。
ひたすら世界と生活の重みが伝わってくる。

登場人物、特に主人公テスと夫エンジェルの愚かさが心にのしかかる。
なんでこんな事してしまうんだろう、と思う。
非常な貧しさ、過酷な仕事、生活。
幸せになりたいと思い、だが日々の仕事に追われる。
そして、たまにある喜び。
そして長いつらい悲しみ。

幸せになれる、なれた筈なのに、自分の感情を乗り越えられずに
結局幸せを捨ててしまう。
他人から見ればでは愚かな行動なのだが、本人にしてみれば
それが正しいと思う選択であり、また、そういう生き方しかできない。
結局、俺もそうなんだ。
間違わないように、注意深く行動しても、取り返しのつかない
愚かな失敗をしてしまう。
誠実に生きているつもりでもその下では狡さの皮が浮きでてきてしまう。
一生懸命生きようとしていても、前に進むことができない。

そんな気持ちを呼び起こす映画だった。



2018年5月19日土曜日

わたしと小鳥と鈴と

この前東京で見た。
電車の中で何組も見た子供連れ。 特に母親は「人に迷惑をかけないように」
の意識が強いのか、もの凄く遠慮しつつ電車に乗っている感じがした。
確かに人に迷惑をかけてはいけない。言葉で言えば。
アンタら勝手に子供作って勝手に外出してるんだ。ワタシの邪魔をするな。
でも、子供は、赤ん坊はそんな理屈聞いてくれない。
社会と子供の板ばさみになるのは親。

日本の社会全体が他者に神のような絶対的正しさを求めてる。
https://twitter.com/yoshimuramanman/status/996034472154808320


そして安くて質の良いものを求める僕ら消費者がブラック企業を作っている。
https://twitter.com/hose0123/status/993697270116708353
確かに世界の中の日本を考えたら、興隆してくるアジア・アフリカの
経済力を考えたら日本も停滞はしていられない。

今の政治経済でのバッシング、何かベクトルが違うと思う。
努力する方向が違うんじゃないか。

言ったほう、要求した方は要求したから、言ったから責任を逃れた
みたいな感じになってる。

自分もそうなんだがね。
芝居をしていても、つい、高みとか精度とか求めちゃうんだよ。
当然、そうなんだ。客の立場としては当たり前な事だし、上昇志向は大切。
確かにね。
安易にお互いの欠点を容認しあうのも本当の優しさでは無い気がする。
なんだけどさ。
キーになるのは当事者意識じゃないのかな。
批判も批評も、回りから見た、顔の無い傍観者の意識ではなく、
当事者としての意見だったら、それって建設的な事じゃないかな。

良く知られた金子みすずさんの詩
http://iso-labo.com/labo/words_of_MisuzuKaneko.html#watashitokotoritosuzuto

甘っちょろい許しあいは不毛だけれど
できもしない事を期待するのはもっと不毛。
要求するほうが逆に不誠実なんじゃないかな。

2015年7月26日日曜日

2chを見て

悪意だけで人は死んでしまう。

悪意のある言葉を投げつけられただけで人は死んでしまう。

言葉はただの信号なのに、なぜだろう。
でも、本当の話。


特に親からの悪意は、もしくは、親からの無関心は酷い苦しみを子供に与える。

人はコミニュケーションにより大きく影響されるって事か。


虎は群居動物では無い。
他の虎から吼えられても虎は死なない。と思う。

親虎から育児放棄されたら子虎は死ぬ。
それは具体的に放棄されたら、だが。





2015年6月21日日曜日

演技するって

結局内容はどうでもいい気がしてきた。

人は所詮声高にセリフを喋りたいだけなんだろう。
そして、そのテーゼが人にうまく伝わると、というか、人にうまく伝わると、自分が納得できるような
セリフを言えればそれでいいんだろう。

人は愛されたい、認識されたい、受容されたい。

無価値で意味の無い存在である事が耐えられない。

だから声高にセリフを喋る。


例えばスポーツでもいい。
贔屓のチーム、例えば日本代表がいたら、それについて、色々言う。
そして勝ったら自分の事のように偉ぶる。

自己愛。

しかし、その愛というのも結構マユツバで、本当に自己愛なんていう物はあるのか、
という疑問もある。

実際は生ぬるいものではなく、暖かいものでもなく、もっと機械的な側面もあるのかもしれん。

人間が世の中を認識する、あるいは人間以外の動物でも同じかもしれないが、
そのためのよりどころ、座標、ものさし、となるのがワタシなのだろう。

われ思うゆえに我あり。

われ思うゆえに世界あり。


われがなくなっても世界は存在するが、世界を切り取る意識はわれという自意識がないと
世界を認識できない。
全て愛他精神、自己を全く愛する姿勢が無かったら、多分世界を認識できない。

極端な話、生きる、食う、ためには競争しなければならず、他者を自分より重く
置いたら即座に人は死ぬ。

だから人が生きていく座標軸、ものさし、が自己愛なのかもしれん。
当然、座標は一軸でなく、他者という二軸目もあるかもしれないが、
一軸目が無い二軸は無い。

2015年6月17日水曜日

重要感

営業の本より。

誰も彼も、みな重要感に飢えている、というテーゼ。

例えばツィッターで、何かキーワードを入れてつぶやく。するとそれに反応して
フォローしてくれたり、リプライ返してくれたりする。


重要感とはなにか?
世界にかかわっている、尊重されている、尊ばれる、関心を持たれる。

だから、自分が関心を持っている事を誰かがつぶやくと、
「呼んだ?」
って言う事になる。

人は自分が無価値であるという自己認識に耐えられない。一般に。

だから関心をもたれたい。

愛の反対語は無関心だと言う。
関心を持つ事は、相手を尊重する事、認識すること。