2015年6月21日日曜日

演技するって

結局内容はどうでもいい気がしてきた。

人は所詮声高にセリフを喋りたいだけなんだろう。
そして、そのテーゼが人にうまく伝わると、というか、人にうまく伝わると、自分が納得できるような
セリフを言えればそれでいいんだろう。

人は愛されたい、認識されたい、受容されたい。

無価値で意味の無い存在である事が耐えられない。

だから声高にセリフを喋る。


例えばスポーツでもいい。
贔屓のチーム、例えば日本代表がいたら、それについて、色々言う。
そして勝ったら自分の事のように偉ぶる。

自己愛。

しかし、その愛というのも結構マユツバで、本当に自己愛なんていう物はあるのか、
という疑問もある。

実際は生ぬるいものではなく、暖かいものでもなく、もっと機械的な側面もあるのかもしれん。

人間が世の中を認識する、あるいは人間以外の動物でも同じかもしれないが、
そのためのよりどころ、座標、ものさし、となるのがワタシなのだろう。

われ思うゆえに我あり。

われ思うゆえに世界あり。


われがなくなっても世界は存在するが、世界を切り取る意識はわれという自意識がないと
世界を認識できない。
全て愛他精神、自己を全く愛する姿勢が無かったら、多分世界を認識できない。

極端な話、生きる、食う、ためには競争しなければならず、他者を自分より重く
置いたら即座に人は死ぬ。

だから人が生きていく座標軸、ものさし、が自己愛なのかもしれん。
当然、座標は一軸でなく、他者という二軸目もあるかもしれないが、
一軸目が無い二軸は無い。

2015年6月17日水曜日

重要感

営業の本より。

誰も彼も、みな重要感に飢えている、というテーゼ。

例えばツィッターで、何かキーワードを入れてつぶやく。するとそれに反応して
フォローしてくれたり、リプライ返してくれたりする。


重要感とはなにか?
世界にかかわっている、尊重されている、尊ばれる、関心を持たれる。

だから、自分が関心を持っている事を誰かがつぶやくと、
「呼んだ?」
って言う事になる。

人は自分が無価値であるという自己認識に耐えられない。一般に。

だから関心をもたれたい。

愛の反対語は無関心だと言う。
関心を持つ事は、相手を尊重する事、認識すること。



コミニュケーション

ツィート見て。

妹んちにあった少女漫画色々読んでいて思ったんだけど、登場人物は全員もっと「報告」「連絡」「相談」を徹底すればそんな様々なすれ違いは生じないし、誤解も生まれないし、感情的になって思わずひっぱたいてしまったりすることもなくなると思う。あと少女漫画もなくなると思う。

その通りだと思う。
仕事していて思うのは、意思疎通の難しさ。
言葉は共通の土台が無いと通じない。
話せばわかる、という言葉は、話せばお互いの違いがわかる、程度。

話しても合意できるとはかぎらない。
その上、意志がなかなか伝わらない。真意が伝わらない。
会話していても、長くながく、じっくりと喋らないと伝わらない。

しかし、人間の時間は有限。だからわかりあう前に、会話を切り上げてしまう。
わかったと思いたいんだと思う。わからない事は面倒だから。
わからない、という事が不安だから。だからわかった気になるように
したい、という本能が働くんだと思う。 わかるエネルギーを最小にしたい
というものぐさな志向。

認知の枠組みも、第一印象バイアスがかかる。
たとえば「好きな人」「嫌いな人」という枠組みがあれば、その上に乗った
相手の言葉の認識も適当にすませる事ができる。
そのものぐさ志向がわからない、を増加させているのだろう。

2015年6月15日月曜日

信頼とはなにか?

信じていた人に裏切られる。ショックである。
どこの国でも、どのシチュエーションでも人間が共通して抱く心理である。

しかし、それはなぜだろう?
信じるとは?裏切るとは?

約束していた事をたがえる。
予期していた行動をしない。

例えば浮気がばれた、としよう。 別に物理的に被害をこうむる訳ではない。
しかし、浮気された方は非常なショックである。
ばれる前と後とまったく物理的な差は無い。
しかし、「知る」という事で、ものすごいショックになる。

人間に共通の現象であれば、動物でも同様の心理があるのか?
犬が飼い主から捨てられたら、犬はショックを受けるのか?
受けそうである。 しかし、能動的に捨てたのか、ただ別れ別れになった
だけなのかがわからなかったらどうなのだろう。 ただ別れ別れになった
だけならば悲しいけれど、それは何か救いのある悲しみだと思う。

しかし能動的に捨てられた場合、もっと根源的な苦しみを感じるような気がする。

いじめ

一般論で言うと、人は弱い。
自分と他人を比べて自分が被害をこうむる可能性があると、他人を犠牲にする。
強い人もいる。 また、他人が迫害されたとき立ち向かう場合もある。
しかし、100%の割合ではない。
そこで犠牲になったものがイジメの対象になる。

いじめとは渦のようなものか。もしくは正のフィードバックによる共振振動系のような感じがする。
例えばAが犠牲になりかけた場合、それが加速される雰囲気にあると、
犠牲者へのイジメが増強されていく。 ひとたびそれが開始されるとどんどん加速する。
そしてあるピークを過ぎると(例えばいじめられた方がいなくなるとか)すると
次の犠牲者候補がターゲットとされて次々にそれがくるかえされていく。


正のフィードバックでなく、負のフィードバックが働くと、安定系になる。
その場合、最初にイジメのバイアスがかかり始めても、それに相対する
エネルギーが発生し、そこで安定する。



2015年6月14日日曜日

がっちりマンデー・ショップジャパンを見て

社長がアメリカ人(元アメリカ人か?)のせいなのか非常に合理的。

合理的だから成功したとは限らないし、合理的が全てとは限らないが、
いわゆるアメリカ的合理主義と感じた。

例えば外国で売れた商品を売る。
日本で売れるかうれないか判断して、失敗しないように売るのが日本的発想。
しかし、それはやってみなければわからないから、とりあえず売る、判断は消費者、
という発想でショップジャパンはやってきた。

つまり、失敗しないようにコストをかけ、時間をかけるのが日本流
失敗してもそのロスを最小にしておいて、数を打つというのがアメリカ流

太平洋戦争の飛行機の特攻をミサイル弾幕で落とすという発想だ。
当てるのが難しい。 無理だ。 だから死角を無くすようにする。



商品も日本向けにカスタマイズする。
通販番組のビデオも日本向けにカスタマイズする。

そして、それを取り合えず出す。 練りに練ってだすんではなさそう。
取り合えず出す。 そして、徹底的に冷徹な位合理的に消費者の反応を受ける。
受けた反応をすぐ商品や番組に反映する。

そしてまた消費者の反応を受ける。


今までの自分の生き方、ザ・日本人。 ザ・職人のような自分の考え方に
疑義を抱き始めた、今日の感想。 おもしろかった。



食べられる豚の知能

豚は猿並に知能があるから食べるな、という主張を聞いた。

「ブタはチンパンジーやイルカ並みに高い知能…食肉用動物としての扱いを再考する必要がある」

http://news.discovery.com/animals/iq-tests-suggest-pigs-are-smart-as-dogs-chimps-150611.htm

殺す、食べる。殺して食べる。

生きるために必要なこの行為と、倫理という物、人間の持つ社会性との対応で
ぶつかっているのか。

そもそも生きるために殺すという行為、それと殺される側の知能は関係が無い。筈。

しかし、人間が持つ社会性の本能が、人間以外の物にまで拡大解釈されてしまうと
このような事になる。

それこそ、知能が低ければ殺していいのか、という論理。



最近ネットの情報により動物の持つ知能や悟性が従来知られている以上に高い
という事が市民権を持ち始めているように思う。

また、同時に、野生では捕食関係にあるペット同士(猫とねずみ)がペット同士だと
共存していたりする事例も良く見られる。

ある意味、衣食足りて礼節を知る、の動物版という所だ。

しかし。
ペットは餌を食べる。 その餌は動物を殺して(例えば魚を殺してとか)出来ているわけだ。

野生では動物AがBを食べている。

人間のペットAとBが別の動物Cを仲良く食べあっている。

こういう図式。 まあ、AとBはCを殺して食べている、という認識は無いかもしれないが。






ハラスメントについて

ハラスメントという言葉がある。

今まで概念化されていなかったが、現在はあたりまえのように周知さている。
しかし、その実態は何か?
明確な定義が難しいのではないか。

たとえば、犯罪で言えば意図と行為だと思う。

暴力を振るいたいという意図があっても犯罪にはならず、
暴力を振るっても意図が無く過失であれば罪は軽くなる。
つまり意図と行為の関数と考えられる。
(これが宗教的に考えれば、意図があればすなわち罪になるのかもしれないが。)

さて、上司や教師や配偶者が相手にした行為がハラスメントとして認定されるやいなや?

相手に触るセクハラは外部から認定されやすい。カメラに撮影できるから。
しかし言葉でするセクハラは? 
コミニュケーションを円滑にしようとしたシモネタは?
結果が嫌がられればセクハラだとされる。

逆に立場が強い人間がセクハラのつもりで言っても、ウケル方が楽しければ
それはただの楽しい関係。(そんな場合はレアケースだろうが)

心の状態を外部で判定するから難しいのだろう。




インド楽器タブラの演奏を見て

今日見たのは題名の無い音楽会。
インド音楽でのタブラという楽器。
打楽器だのだが、そのたたき方が色々あり、その音程など、多種多様な組み合わせがある。
これを言葉に対応づけしている。

で、それを鳴らすときに、これこれこういうフレーズを鳴らすとか、
他の奏者とセッションするときに、これをならそう、とか、これでどうだ?
という事を言葉で話ができそうである。

例えばセッションを行う時は、奏者のライブ感覚でその時々に刻々変わる状況で
作曲していく訳だ。

その時、演奏するのと同じ時間がかかったのでは、例えばAかBかCかのフレーズを
選択する時に、3倍の時間がかかってしまう。

それを言葉に割り振って、つまりコーディングする事で、AかBかCかを奏者同士で
意志伝達する事ができ、その選択が一瞬で済む。

それがコーディングするという意味、効果である。


また、コーディングは言語と相性が良く、言語は記録とも相性がいい。
だから過去の音を記録する事ができる。これがいわゆる楽譜である。