2020年4月11日土曜日

演劇が好きで練習が好きで出来てく過程が好き

今日、サワコの朝で風吹ジュンさんが、山登りの良さについて語っていた。
できない事をできる事に変えていくべく一つ一つ積み上げていく、って。
山登りは辛いけれど、できない事がふっとできる瞬間があって、
だからやめられない、って。

思い出した。
俺が演劇の現場でやってた事ってこれだった。

今までできていた事ができなくなって、先行きの目処も立たなくて
あまりの衝撃に思考停止していたんだと思う。

でも、思い出した。
基礎連の積み重ねで、できない動きができるようになる。
脚本解釈の積み重ねで文字だけだった脚本がリアルな世界になっていく。
動き練習の積み重ねで、つながっていない役者同士の動きが、
感情が、言葉がつながるようになる。

最初は役の形だけだった感情。
悲しみが、怒りが、喜びが、役者の体の底からの自分の感情と
繋がって噴出する瞬間。
その目線と表情と体と動きを見る瞬間。

練習の空間は、そういう空間だった。

また、そこで生きたいね。



2020年3月30日月曜日

俺のおすすめ映画


さて、コビットで皆さん遊び制限されてフラストレーション溜まってると思います。
そこで。私のお勧め映画を大紹介。
ハートフル映画からおバカな映画、バイオレンス、ごちゃまぜだし、
古い映画ばっかりですが、いいですよ。
いろいろなテイストの作品ばかりだけど、共通なのはみんな泣ける要素がある事かなあ。映画ライフのご参考に。


オーロラの彼方へ
30年の時を越えた「声のタイムトラベル」で結ばれる親子の絆を描いたSFファンタジー・サスペンス。
https://www.youtube.com/watch?v=gqSeVHvhoss

トゥルー・ロマンス
大量のコカインが入ったスーツケースを持ち帰ったことから、マフィアや警察に追われることになったカップルの破滅的な逃避行を描くバイオレンス・ロマンス。
https://www.youtube.com/watch?v=2oD0oFaf2GM

舞妓Haaaan!!!
サラリーマン鬼塚公彦(阿部サダヲ)が京都・祇園の舞妓と野球拳をしたいという夢を追い求めるというコメディ映画
https://www.youtube.com/watch?v=ZnCfXPJQdqI

僕のワンダフル・ライフ
飼い主の少年と再び巡り会うため生まれ変わりを繰り返す犬の奮闘を描いたドラマ
https://www.youtube.com/watch?v=z9PGBsd9dRE

スターリングラード
英雄となった実在の人物ヴァシリ・ザイツェフを主人公に、スターリングラーにおける激戦を描いたフィクション。
https://www.youtube.com/watch?v=BLtQIsv749A

ガタカ
遺伝子が全てを決定する未来社会を舞台に人間の尊厳を問うサスペンスタッチのSFドラマ。
https://www.youtube.com/watch?v=LQdjccJOfyU


メメント
前向性健忘(発症以前の記憶はあるものの、それ以降は数分前の出来事さえ忘れてしまう症状)という記憶障害に見舞われた男が、最愛の妻を殺した犯人を追う異色サスペンス。
めちゃわかりにくいがめちゃ面白い。
https://www.youtube.com/watch?v=qirQCqU1-1o

あとは、監督で言うと以下かなあ。(敬称略)
ラース・フォン・トリアー、クリストファー・ノーラン、クリント・イーストウッド、
ロマン・ポランスキー



2020年3月14日土曜日

コビッド19、演劇、人との繋がり

1.一般論
野田秀樹さんの「演劇の死」発言。

高須医院長が、公演やらなくても演劇は死なない、って言ってたけれど、
これは多分感覚の違いだと思う。
公演やらなくても人は物理的には死なない。
だが「演劇」っていうものは、コミニュティであり、文化であり、関係性
であり、情報が飛び交う一種擬似的な生命体だと思う。

例えば、コビッドにより高須クリニックの建物に入れなくなっても、
社員や患者や関係者は死なない。しかし法人としての会社は倒産するだろう。
それは法人の死だ。それと同じ。

例えばスペイン風邪と同じく2年間パンデミックになったとする。
公演ができなくなる
→生活のための仕事ばっかりやってて演劇から遠ざかる
→芝居のノウハウが無くなっていく。技術も低下する。
→観客も見る習慣がなくなる。
→公的な補助金や助成システムも申請されなければ無くなる。
こんな図式が見えてくる。

2.アマチュアについて考えてみよう。

人はなぜ演技をするのか。演劇をやるのか?

他人ともっとうまく繋がりたい。
成長したい、弱い自分を変えたいなどと言う、漠然とした思いはあっても、
人はそれほど強くないから、そのままではうまくいかない。
その手助けを演技が、演劇がやれる、のではないか。
自分という殻を演技という事で破れる事がわかるから。

例えば公演をやるとする。でも危険だから中止になる。
練習のために集まる。危険だから、と中止になる。
健康、安全、生きるためには遊びなんか諦めろ、と言われる。
言われなくても、周りが、社会が、ネットが、マスコミがみんなが言う。
遊びなんか我儘だから諦めるしかないかな、って思う。


3.自分のこと
俺は演劇作るのが好きだ。なぜか?
喋る、見る、近づく、怒る、笑う、泣く、動く、走る。
リアルな人を見る、それが演劇。
俺の場合はそれにプラスして、というか、それと同じ比率で、「作る」のが好きだ。
考える、知り合う、繋がる、協業する、助けられる、助ける、作る。
作る過程が面白い。
そして、人を育てる。方法を考える、育った人が見事な演技をする。
その成果を見るのは無上の喜び。

コビッドはそれを阻害する。
公演の機会を阻害する。
作る過程も阻害する。
人の成長の過程も阻害する。

もちろん、演劇だけでは無い。
音楽だって、ダンスだって、スポーツだって、みんなそうだ。
リアルでは一人での作業、ネット配信、小説、絵画、登山、などは
まだ少しは危険性が低い。
でも、特にリアルに人と一緒になってやることは、
その全てが阻害されてしまう。

どうすればいいんだろう?
ただ黙って耐えるのか?

他人を危険にさらす、と言われながら(思われながら?)
芝居をするのか?練習をするのか?教育をするのか?公演をするのか?
なにか別のチャネルを見つけるのか?

見えない・・・

パンデミックが社会に与える影響

我々に与える影響を考えてみた。

コビッド19の致死率が高い。1%だか2%だか3%だか。
結局致死率という指標が感染者のうちの死亡者としても、感染している
かどうかという母数自体が正確にはわからないし、重篤者が得られる
医療の状況によっても変わってくる。だから正確な値はわからない。
しかし、10%では無いし、50%では無いし、0.1%では無い。だろう。

ちなみに、スペイン風邪では人類の3割が感染し、その5%が死亡。
つまり人類の2%位が死亡した。


出典
「1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200228-00165191/


さて。
人類にとっての一番の脅威は「感染する」という事だと思う。

人類の発展は、自分を助けるための利己的行動と、社会的な協業活動が一体となって
来たことでなされてきたと思う。

太古、例えば狩猟生活をしていた人間は、ばらばらに生き、
基本自分のためにだけ行動していた。

現在は、当然科学技術や社会的インフラという物理的な物はあるとしても、
基本、社会というネットワークにより、自分のための利己的行動が社会全体の
利益になっている。そして、それが効率化と科学技術の発達を急激に
推し進めてきた。

例えば自分の生活をするために農業をすれば、それにより食料を得られる人がいる。
自分の給料のために、自動車メーカで車を作れば、社会的には農作物を
消費地まで効率的に輸送できる。
そしてお金(現金だけでなく信用という意味でもいい)という形ですべてが
つながって、自分のための活動が他人のための活動になっている。
そしてグローバリゼーションによって、自分のための活動が人類のための
活動になっていた。そして、それはあらゆる局面で効率的に人類を進歩
させてきた。
仏教でいう、天国での長い箸状態だったわけだ。
1kara.tulip-k.jp/buddhism/2019077493.html

もし惨禍があったとしても、巨大地震のような災害だったり、致死性の高い
病気だとしても非感染症だったら、他人のための支援活動が自分を危険にさらす
割合が低い。

しかし、パンデミック状態では、その活動の伝達が阻害されてしまう。
自衛のため他人に協力する事ができない。
そして自分と他人のために行動すると、それにより直接自分が危険になってしまう。
だから自分のためにだけ行動する。その活動は狩猟民の生活と同じく極めて効率が悪い。

そして。

貨幣経済の本質はリアルな関係(商品という物も含む)を裏で支える信用だと思う。
しかし、感染によりリアルな関係が危険となったら、その対価である
貨幣も回らなくなる。
これはヤバイ。
危機での不安感により、自分だけを守ろうとする心理が働き、仏教でいう、
地獄での長い箸と言う状態になる訳だ。

さて。
分析はこれまでとして、さあ、どうする?って事だが。

すぐ効く特効薬は無い。(感染症としての、では無く、社会的危機に対する意味で)
危機の原因が、人間社会の基本に根ざす物だから。

まあ、当面は、巷で言われている、地味な以下の対策しか無いのだろう。
「感染爆発を遅らせる」
「医療システムを保持する」
「社会システムを保持する」
そしてテクノロジの発達で感染症の特効薬ができた、とすると、かなりの
好影響にはなるだろう。

対策としては非常に当たり前の結論になった。

2020年2月29日土曜日

平成ぽよ I love you. 見てきました

今日も公演あるので、ネタバレご注意。
ストーリー・テーマ。宇宙の深淵、真理、知識への愛。
科学の側面から見た人間性とは別の世界。

それとは対照的「?」な、親子の感情、愛情、鬱屈したコンプレックス。
2つを絡ませながら進めていく意欲的な作品。

一般には無縁な科学技術的ギミックをてんこ盛りで入れていたのは、毎度の
山田さんのこだわりだと思う。
VR、巨大中国企業、株価、生体リンク、AI、人為生殖。
プロットとして謎解きゲームをつかって観客を引っ張っていく設定。
役者も4年生による経験者の力で、面倒な技術用語交えて芝居として成立させていた。
また、ホールでないスペースで照明機材も貧弱な中で、舞台転換中心に
演劇的なテクニックを使って切れ目ない70分を構成していた。
ミニマルな音楽による演出も観客の心理を下支えしており好感。


さて、以下一観客としての感想。
自分も製作者として「そんならお前やれるんけ?」という事ははあるのだが、
今は棚上げして、以下コメントする。


1.メインテーマの追求
物語のベースとなる物は、宇宙的な真理への渇望、根源への願望という物だった。(と思う)
それは娘を顧みないニナの野望や行動原理でもあり、ニナを間にしたキララと
ターチの行動原理でもあった。これはラストでどんでん返しを構成するために
不可避な要素であり、また感情的なメインテーマである親子のLoveと
ヲウリの娘としてのコンプレックスのベースとなる物だから、一番表現
するべきテーマだった。しかし芝居の前半で演劇的にうまく表現できておらず、
物語全体をひっぱる牽引力が弱かった。

2.キャラクタ分離
構想から脚本へ落とし込む際、ストーリーとテーマを語る事からキャラクタを
創造して行っていると推定するが、作品中で個々のキャラクタの意思と原理が
実際の行動とずれている感がある部分が要所に見られた。

例えばアルクの日常人的行動性とヲウリの突出した知的能力。
アルクとヲウリが一緒に行動する際に、言動の混在が感じられた。
行動を共にする場合は、キャラクタとして分離・対比させた方が
よりキャラクタが引き立ち、行動原理が明らかになると思われる。
(吉田秋生の夜叉に表されているような天才と市井の人間との対比相克)

3.セリフ回し
ストーリー展開時に行動や感情とだぶるセリフ、紋切型のセリフが多く、
役者の「演技」の自由度が削がれている箇所が多かった。
もっと役者の演技の力を信頼してセリフを削るべきだったと思われる。
しかし、これはプロジェクト内で、いかに演出方針と役者の解釈を
すり合わせる時間との勝負でもあるので、そこでのトレードオフは
難しい所ではある。
私のようなエンタメを望む観客としては、もっと具体的な演劇的な舞台寄りの
脚本を作ってもらうと、より楽しめると思う。
山田さん卒業なので、もう見る機会は無いかもしれないのが残念だが。

4.プロット
ラストの143を「観客に説明しない」ために、要所でしかけた暗号解読の前フリ。
おしゃれにラストをまとめるためには必要な方法論ではあるのだが、
膨大なギミックを短時間でまとめるという全体的な要請のためには、
もっと効率的に使いたい。
例えばメインテーマである、科学と宇宙と真理の壮大な世界に対する愛との
ベクトル合わせが、この日常的に見える前フリエピソードとできていれば
1.で説明しているメインテーマを下支えする事ができただろう。
脚本的にはできていたのかもしれないが、あまり演技として伝わって来なかった
気がするのは残念。これは演出面で役者と演出とのすり合わせ不足だったと推測。



最後に

プロジェクトとして、非常に難しい挑戦だったと思う。
脚本上、一般的ではない素材を扱うために、説明とストーリー展開を含めて
70分に収めるという非常に難しい事を目指した作品と思う。

今回題材や大量に投入されたギミックを脚本書き及び、舞台制作の中で
役者や関係者が消化しきれないままに時間切れになってしまったのでは
ないかと推測する。
主役の交代も練習や時間が無い中での大きなロスだったのではないか。
という所で、演劇的な感情、感動という点では残念ながらあまり評価はできない。

しかし、わかってながら挑戦する、というのは学生なればこそ、だし、
仲間同士の絆がある学生のサークルだからこそできる事だったのかもしれない。

4年間の集大成という事で、その時点で困難とわかっていても挑戦し、
またコロナウィルスの対応という逆風の中で、よくぞ完成したものだ。

卒業公演プロジェクトとして評価に値すると思う。

皆さん、お疲れさまでした。