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2022年11月27日日曜日

柏崎市長への手紙(再掲)

 柏崎市長 櫻井 雅浩様



ゆりが丘在住 山崎 勇と申します。

以下、長文になりますが、提言させていただきます。


1.提言内容

以下施設における、利用者への一律のマスク着用願い表示の撤廃

入口での機械による着用依頼音声の停止

利用者全員への過度な着用要請の撤廃

即時が困難であれば数か月かけて段階的な撤廃


①市の管轄施設

②委託事業者管轄建物(アルフォーレ、産業文化会館)などへの指導

③学校

④その他、市の関連施設


2.提言理由

1)背景

 私も感染対策としてのマスク着用のメリットを否定しませんし、

 無論、感染可能性有る場合や体調不良の時は入館を控えるとか、

 咳エチケットの依頼は同意いたします。

 当然マスクしたいという方に着用禁止すると言う事でもありません。

 国全体の状況含めメリットを承知の上での提言です。


2)私個人として現在の全国民マスク着用のデメリットを感じております。


・自分が着用する際の息苦しさ不快感

・周囲の人々の表情を読めない不安感

・名前を覚えられない、個人として会話しにくい不安感


さて、施設に全員一律の着用願いがあると、私のようにマスク着用に不快感を

持つ人間は以下の選択肢しか取れません。


・施設を使用しない

・不快を我慢して着用した上で使用する

・お願いを無視するという罪悪感を持たされた上で着用しないで使用する。

 お願いを無視する社会的不適合者として他の利用者から白い目で

 見られた上で使用する。


民間の施設であれば使わなければ良いですが、市民として選択肢の無い

市の施設利用サービスを制限させられているという事になります。


これらは、一市民としての直接考える理由ですが、ネットの声を見ると、

私と同じ気持ちを持つ人もおります。なので、柏崎においても、

市民のうち数百人以上は同様に感じているのではないでしょうか。


今、このような声を大きく聞くことはありませんが、

声を上げると目立つ事になってそれを嫌う心理があったり、

女性や子供などの弱者はいわゆる「マスク警察」から着用強制するよう

暴言、暴力を受ける恐れを感じているため、大事になっていない

だけではないでしょうか。


3)以下の心理的問題があり、長期化する程大きな悪影響が出ると推定します。


・子供への影響

 先生を始めとして全ての大人がマスクを着用しております。

 子供は大人をお手本として真似をしながら成長します。

 なので、通学時、体育時など屋外でマスクを外すよう指導しても

 嫌がるようになっており、通学時一人で歩く子供の殆ど着用しています。

 今後、感染対策不要となった時も、子供達がマスク非着用者を

 異常者とみなすモラルを持つ大人になる可能性が高い。

 私達は今後、そのような社会を本当に望んでいるのでしょうか。

 また、顔を出すのを異常に恐れる思春期特有の不安が高まり

 不登校の要因にもなりうるでしょう。

 

・高齢者においても、表情が読めなくなり、個人の認識が

 できなくなります。元々弱っていた認知の機会が減って

 認知症の発症、悪化リスクが高まる恐れを感じています。


・海外はマスクフリーが主流となっており、着用している国は

 感染が蔓延する危険な国という印象を与えてしまい、

 今後、海外からの観光客を誘致する際のデメリットとなります。

 また、グローバル化が進んで、マスクが無い海外に若い人々が

 出て行く際の心理的障壁になる恐れを感じます。


4)全員着用依頼の根拠

①Covid19は2年前と感染状況が異なって弱毒化している

②スーパーコンピュータでのシミュレーションなど見た目派手な

 プレゼンテーションはあったが、マスク率ほぼ100%の日本と

 着用率が低い他国を比べて感染予防に効果があったという疫学的な

 証明はされていない。


3.提言の根拠

2-3)に示したように、マスク着用により心理的デメリットがある、

というのは私がメディア、ネット、書籍から得た知識を元にしています。

また長年アマチュア演劇をやっている関係で、表情と人間関係

について強い印象を持っているのも関係しています。

これらは一般人による推定で、統計的な裏付けはありません。


しかし、逆にデメリットが無い、という数値的裏付けも無い訳です。

感染予防だけで見ればマスク着用の効果はゼロでは無いが、全員着用は

長期的に見ると社会的デメリットが大きすぎると推定します。


そして、統計的に証明できる程の悪影響があったとしても、歴史は

後戻りできないので、発覚した時点で既に取り返しがつきません。


よって、現在できる最善は、市民が生活する現場で、個人個人が

着用・非着用の判断して行動するようなしくみにすべきでしょう。


そして現在、屋内でマスクを外すよう依頼する文書は無い訳ですから

バランスを考慮すると着用を推進するような表示、依頼も

避けるべきと考えます。


4.柏崎市長へお願いする理由

1)外的状況

マスク着用について、政府、厚労省、新潟県からの通達は実質強制

であると言えども文章としてはガイドラインや推奨です。

という事は、各自治体の判断で具体的な現場の決定は行える筈です。


2)行政の状況

今週、柏崎市の健康推進課、総務課の職員の方とも懇談し、上記

着用依頼の撤廃について提言いたしました。私の趣旨は理解いただき

ましたが、具体的な決定については職員レベルでは権限が無く、

市民の総意を受けた市長の判断に従うという事でした。


3)議会

市議のお一方に相談し、私の個人的な思いも納得できるものではないかと

言う言葉をいただきました。


4)民間施設

実際の事業者について知っている訳では無いですし、基本は民間施設の

代表者の決定によるものになるでしょう。しかし、やはり民間の施設も

リスクを負う事を嫌い、市や県の施設のガイドラインに

沿ってマスクの依頼をしている所も多いと推定します。

よって市の施設、関連施設での対応も率先してお願いしたい。


5.最後に

提言内容、全く理解できない話では無いとは思いますが、感染症対策のみを

重視すれば、実施は困難である事は重々承知しております。

しかし、経済、社会マインド、子供への影響など、早期に具体的な

対策を開始すべき事と思いますので実現を期待しておりま



2020年3月14日土曜日

コビッド19、演劇、人との繋がり

1.一般論
野田秀樹さんの「演劇の死」発言。

高須医院長が、公演やらなくても演劇は死なない、って言ってたけれど、
これは多分感覚の違いだと思う。
公演やらなくても人は物理的には死なない。
だが「演劇」っていうものは、コミニュティであり、文化であり、関係性
であり、情報が飛び交う一種擬似的な生命体だと思う。

例えば、コビッドにより高須クリニックの建物に入れなくなっても、
社員や患者や関係者は死なない。しかし法人としての会社は倒産するだろう。
それは法人の死だ。それと同じ。

例えばスペイン風邪と同じく2年間パンデミックになったとする。
公演ができなくなる
→生活のための仕事ばっかりやってて演劇から遠ざかる
→芝居のノウハウが無くなっていく。技術も低下する。
→観客も見る習慣がなくなる。
→公的な補助金や助成システムも申請されなければ無くなる。
こんな図式が見えてくる。

2.アマチュアについて考えてみよう。

人はなぜ演技をするのか。演劇をやるのか?

他人ともっとうまく繋がりたい。
成長したい、弱い自分を変えたいなどと言う、漠然とした思いはあっても、
人はそれほど強くないから、そのままではうまくいかない。
その手助けを演技が、演劇がやれる、のではないか。
自分という殻を演技という事で破れる事がわかるから。

例えば公演をやるとする。でも危険だから中止になる。
練習のために集まる。危険だから、と中止になる。
健康、安全、生きるためには遊びなんか諦めろ、と言われる。
言われなくても、周りが、社会が、ネットが、マスコミがみんなが言う。
遊びなんか我儘だから諦めるしかないかな、って思う。


3.自分のこと
俺は演劇作るのが好きだ。なぜか?
喋る、見る、近づく、怒る、笑う、泣く、動く、走る。
リアルな人を見る、それが演劇。
俺の場合はそれにプラスして、というか、それと同じ比率で、「作る」のが好きだ。
考える、知り合う、繋がる、協業する、助けられる、助ける、作る。
作る過程が面白い。
そして、人を育てる。方法を考える、育った人が見事な演技をする。
その成果を見るのは無上の喜び。

コビッドはそれを阻害する。
公演の機会を阻害する。
作る過程も阻害する。
人の成長の過程も阻害する。

もちろん、演劇だけでは無い。
音楽だって、ダンスだって、スポーツだって、みんなそうだ。
リアルでは一人での作業、ネット配信、小説、絵画、登山、などは
まだ少しは危険性が低い。
でも、特にリアルに人と一緒になってやることは、
その全てが阻害されてしまう。

どうすればいいんだろう?
ただ黙って耐えるのか?

他人を危険にさらす、と言われながら(思われながら?)
芝居をするのか?練習をするのか?教育をするのか?公演をするのか?
なにか別のチャネルを見つけるのか?

見えない・・・

パンデミックが社会に与える影響

我々に与える影響を考えてみた。

コビッド19の致死率が高い。1%だか2%だか3%だか。
結局致死率という指標が感染者のうちの死亡者としても、感染している
かどうかという母数自体が正確にはわからないし、重篤者が得られる
医療の状況によっても変わってくる。だから正確な値はわからない。
しかし、10%では無いし、50%では無いし、0.1%では無い。だろう。

ちなみに、スペイン風邪では人類の3割が感染し、その5%が死亡。
つまり人類の2%位が死亡した。


出典
「1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200228-00165191/


さて。
人類にとっての一番の脅威は「感染する」という事だと思う。

人類の発展は、自分を助けるための利己的行動と、社会的な協業活動が一体となって
来たことでなされてきたと思う。

太古、例えば狩猟生活をしていた人間は、ばらばらに生き、
基本自分のためにだけ行動していた。

現在は、当然科学技術や社会的インフラという物理的な物はあるとしても、
基本、社会というネットワークにより、自分のための利己的行動が社会全体の
利益になっている。そして、それが効率化と科学技術の発達を急激に
推し進めてきた。

例えば自分の生活をするために農業をすれば、それにより食料を得られる人がいる。
自分の給料のために、自動車メーカで車を作れば、社会的には農作物を
消費地まで効率的に輸送できる。
そしてお金(現金だけでなく信用という意味でもいい)という形ですべてが
つながって、自分のための活動が他人のための活動になっている。
そしてグローバリゼーションによって、自分のための活動が人類のための
活動になっていた。そして、それはあらゆる局面で効率的に人類を進歩
させてきた。
仏教でいう、天国での長い箸状態だったわけだ。
1kara.tulip-k.jp/buddhism/2019077493.html

もし惨禍があったとしても、巨大地震のような災害だったり、致死性の高い
病気だとしても非感染症だったら、他人のための支援活動が自分を危険にさらす
割合が低い。

しかし、パンデミック状態では、その活動の伝達が阻害されてしまう。
自衛のため他人に協力する事ができない。
そして自分と他人のために行動すると、それにより直接自分が危険になってしまう。
だから自分のためにだけ行動する。その活動は狩猟民の生活と同じく極めて効率が悪い。

そして。

貨幣経済の本質はリアルな関係(商品という物も含む)を裏で支える信用だと思う。
しかし、感染によりリアルな関係が危険となったら、その対価である
貨幣も回らなくなる。
これはヤバイ。
危機での不安感により、自分だけを守ろうとする心理が働き、仏教でいう、
地獄での長い箸と言う状態になる訳だ。

さて。
分析はこれまでとして、さあ、どうする?って事だが。

すぐ効く特効薬は無い。(感染症としての、では無く、社会的危機に対する意味で)
危機の原因が、人間社会の基本に根ざす物だから。

まあ、当面は、巷で言われている、地味な以下の対策しか無いのだろう。
「感染爆発を遅らせる」
「医療システムを保持する」
「社会システムを保持する」
そしてテクノロジの発達で感染症の特効薬ができた、とすると、かなりの
好影響にはなるだろう。

対策としては非常に当たり前の結論になった。

2019年12月30日月曜日

商品としての「日本」

中国でも買える商品を中国人が日本で買う、という報道を見た。
理由は「同じ商品でも品質が信用できるから」という事らしい。
実際、日頃自分で物を買うにしてもそういう感覚はある。

あと、例えば、日本の交通システムでの定時刻運行の正確さ。
これも時間精度としての品質が高いと言い換える事ができる。

さて「日本製品の品質は高い(高かった)」が正しい前提で考える。
さて、品質保証には付加価値がある。(保証書の有効期限を伸ばすという有料オプションがある事から自明である。)

グローバル化が成される以前の日本の中でその品質保証をするのは、日本人としてのあたりまえだった。 同じ金額でも、品質は当たり前に良く、品質が悪い=クレームの対象だった。 正しい事が当たり前の村社会文化がこの日本式の高度な品質保証システムを作り上げてきた。 しかし、ここで見落とされているのは、日本式の製造・勤労・社会システムにかかるコストである。実際は品質保証には手間と時間がかかる。1000個中5個不良がある事を認める社会(私の実感としての海外品質保証レベル)と1個も認めない社会(日本)ではかかるコストが大きく変わる。

今まではそのコストは日本社会の中でお互いが持ちつ持たれつという事で吸収されていたので、表には見えなかった。品質が良いものを買って(部品)、品質が良い世界の中で(時間通りに動く電車)、品質が良い人材が(高い識字率、進学率)働くから、安いコストで良いものを作る事が出来ていたわけだ。 

しかし、グローバル化がなされて日本が階級社会になり、社会全体に余裕がなくなってきた。部品自体も安いが品質が保証されない物が海外から入ってくる。例えば食料も含めて。すると、その品質保証をするためには、今まで容易にできていた品質保証ができなくなる。 不良率0.01%の物を100個組み合わせても不良率は1%だが、不良率1%の物を組み合わせたら100%不良となる。(まあこれは極端だが)

そこで、同じ金額で物を売る、もしくは安い海外製品と競合して物を売るためには、社会全体で労働者が身を粉にして働く必要が出てくる。
これがブラック企業を産む。そして労働者を尊重するホワイト企業は企業間競争に敗れて倒産する。

これが現在の日本で起きている事、なのでは無いかと言う身も蓋も無い分析のお話。

2019年4月27日土曜日

映画「チェンジリング」を見て。悪とは。

またもやクリント・イーストウッド監督作品。

本当に彼の作品ははずれが無い。
ハドソン川の奇跡、でもあったように実話ベースの話。
その時々の社会の現実を切り取っている。

細かいストーリーや感想はここには書かないが、とにかく良い。

その他に今回感じたこと。
作品には「悪人」が出てくる。「悪」とか「不正」とかが出てくる。
不正、失敗を隠蔽し、主人公、また他の人々を迫害する警部、精神病院、医者。
自分の保身のためなら、どんな冷酷な事もできる。
どんな不正も隠すことができる。
そして、子供達を惨殺する殺人鬼。
感情的に感覚的には「これはおかしいだろう」と思う。

だが、物語の最後、それは一方的な断罪に見えてくる。
この物語では明らかにはしていないが、
つまり、この断罪される矛先にある「悪」「不正」は
俺の中にあり、また社会にある皆の中にもあるのだ。
イーストウッドはそう言っているように見える。

俺は保身をしないか?
社会の皆は保身をしていないか?
皆、自分のために人を犠牲にした事はないか?
善良である事、それは善良である事と自分を守ることが
相反しない時だけだ。自分を守ることが善良さと対立した場合、
善良さを貫くことはできない。多くの場合。

そして、悪と善も結局くるくると変転する。
その時に善だったであろう者も、次の時は悪になる。
ある方向から見たら悪でも、その中では善になる。

全てが相対的、という訳ではなく、絶対的な物も確かに存在するとは
思うのだが、どれを絶対だと確実にいえる物が今の俺には無い。
しかし、「何か」があるとは思える。

物語の中で「女は」「弱い」というキーワードが出てくる。
弱さ、強さ。
弱者は正義を貫くことができない。結局彼女も周りの強力な助けがあって
なんとか不正をあばく事ができた。

一方、不正を隠蔽していた警察(警部、本部長、市長)も強かった。
だが、正義を貫くことができなかった。
無論、今回のストーリーで言う、悪=怠慢=隠蔽は、彼らの全体的な
功績に比べればもしかしたら小さかったのかもしれぬ。

秩序を守った80点の正義の功績の他の20点の失敗かもしれぬ。
それは俺にはわからないし、現実社会では20点の功績で80点の失敗
のような事例は山ほどあるだろう。

わからない。
わからないが、何かがあるように見える。

真実は霧の中で、いくら探しても見つからないとは思うが
俺は俺の道で真実を追究したいものだ。


***************
おまけ

1)見終わってから主演がアンジェリーナ・ジョリーと知ってびっくり。
目が大きい人だなあと思ってたが、アクション女優のイメージが
強かったが静かな演技もいい。
キャスティングは誰かはわからないがプロデューサか?
イーストウッドか?いずれにせよ、アカデミー主演女優賞を取っただけの
事はある。

2)音楽にイーストウッドの名前があった。いい音楽だった。
派手ではないが、いい。

3)最近の作品と思ってみたら10年前。 俺にしてみると10年前は
最近だなあ。







2019年4月14日日曜日

失敗について2

他人の間違いを見聞きする。
でも本人はその間違いが全然認識できない。
明らかな間違いで、他人からも指摘されるのだが、
本人はその間違いを認識できない。
て事はだ。
俺も同じ事をやっているはずだ。
多分やってる。
だから、自分の「正しさ」に対して常に疑問をもたなくちゃならない。

塩野七生さんが「加齢ではなく成功体験」が保守化の要因になっていると書いている。
年を取ると原因と結果のルールベースが経験から
作り出されていく。
それは非常に便利なツールなのだが、半面キケンな所もある。

当然、結果というのは現象を正しく捉えなければ当然間違えてしまう。
って事だから。
だから、現状認識の時に、ああ、これ、前にやった事だね、と思って
手抜きすると、判断を間違えさせる要因になるはず。



2019年2月24日日曜日

ミス・技術・世界

技術屋として35年位仕事をしている。
ミスの影響について分析した事を書く。


1.ミスの発生確率
1)単純モデル
ミスは必ず起こる。様々な要因で。
人間的な単純ミス、ハード的な部品故障、設計時の勘違い、
複数の会社の作る部品の納品違い、設計時と製造時の担当部署で
コミニュケーション不足でのカン違い。
とにかく間違える可能性は無数にある。
そしてシステムが複雑、大規模になればなるほど、その間違える
可能性は飛躍的に増大する。

例えばスイッチ、電池、LED、配線、筐体からなるライトを
モデルとして考えてみよう。部品要素は5つだ。

設計フェーズ
世界中に10種類の電池がありそのうち1種類以外だと動かない。
それが5部品あるから100,000種類のうち正しい部品以外を
選ぶと正常動作しない。確率10万分の1だ。
それを検証するには人間が行うが、それには応じた時間がかかる。

製造フェーズ
故障率が1%だとすると部品5個のライトは大体5%は不良になる。

2)複雑化した時
さて、システムが複雑化するとミスの可能性が増大する。
携帯、金融システム、国家システム。

例えば携帯で1000個の部品が使われていたら、上記で言うと
正常動作する確率は10の1000乗分の1。ほぼ異常動作。
そして故障率はほぼ100%だ。
もちろん事前にミスを防ぐシステムはあるし、自動修復する
技術があるからシステムが増えて悪い方向はかりでは無い。
しかし、逆に部品内部でのトランジスタレベルで考えると
1000個とかではなく、数千万個のレベルになるし、
故障自動修復するシステムがあっても、それ自体もミスする
可能性はある。
だから、モデル化する事自体が困難だが、システムが複雑化すると
飛躍的にミスの発生確率が上がる事は間違いない。

そして、システムが巨大化し、金融システム、国家システム、
となると10の数百乗レベルでミスは発生する。

2.ミスの与える影響
ミスの影響は大きく3種類ある。
100万個の場所のうち、1個が壊れたとかミスしていたとしても、
その場所により、システムに与える影響が大きく変わってくる。

1)その場所で現象が発見でき、原因も修復も容易で影響が限定的
 ライトの電池が逆に入っていて、正常な方向にしたら直った、とか。

2)システム全体への影響が少ないので現象がなかなか発見されないが
 壊滅的にはならない。
 例えばPCに入っていた音楽の曲名が文字化けして一部読めない、とか。

3)システムへの影響が甚大で壊滅的。トラブルを予測できない、
 原因の特定が困難か、原因は分かっても直せない。

 携帯のWifiが繋がらない。
 ファストフードでのツイッターテロ。
 消えた年金。
 公害。
 津波時の電源喪失による原発メルトダウン。
 戦争の発生。 少子化による経済の停滞。
 環境汚染物質による生物への影響。
 

3.世界はどう対処しているのか?いたのか?
1)従来
 複雑なシステムの原因を特定、修復するのは、最初に作るより
 難しい。だから正しく機能している(と思われる)
 別のシステムと交換する、というざっくりした手段の方が
 有効、というか、コストエフェクティブになる。

 携帯が壊れた→直すより買い換える
 コンビニがヤバイ→別のコンビニに行け
 国が壊れた→難民となって他の国になだれ込む。

2)問題点
 複数無いものはそもそも選べない

 個人はかけがえの無い個人。
 お母さんは沢山いるが、特定の人のお母さんは1人。
 代わりの機能をさせる事はできるかもしれないが、
 それは機能互換性でしかない。

 人間の考えたシステムは効率化を考慮して一極集中するのが普通。
 市場が成熟すると、経営リソースを集中した方が強いので
 企業が寡占状態になり、選ぶ余地が減ってくる。
 アマゾン、グーグル、セブンイレブン。
 一極集中の弊害はミスが発生した時に代替がなくなってしまう。
 
 地球。グローバリゼーションが進み、地球が一つとなるとそれ以外を選べない




2018年5月19日土曜日

わたしと小鳥と鈴と

この前東京で見た。
電車の中で何組も見た子供連れ。 特に母親は「人に迷惑をかけないように」
の意識が強いのか、もの凄く遠慮しつつ電車に乗っている感じがした。
確かに人に迷惑をかけてはいけない。言葉で言えば。
アンタら勝手に子供作って勝手に外出してるんだ。ワタシの邪魔をするな。
でも、子供は、赤ん坊はそんな理屈聞いてくれない。
社会と子供の板ばさみになるのは親。

日本の社会全体が他者に神のような絶対的正しさを求めてる。
https://twitter.com/yoshimuramanman/status/996034472154808320


そして安くて質の良いものを求める僕ら消費者がブラック企業を作っている。
https://twitter.com/hose0123/status/993697270116708353
確かに世界の中の日本を考えたら、興隆してくるアジア・アフリカの
経済力を考えたら日本も停滞はしていられない。

今の政治経済でのバッシング、何かベクトルが違うと思う。
努力する方向が違うんじゃないか。

言ったほう、要求した方は要求したから、言ったから責任を逃れた
みたいな感じになってる。

自分もそうなんだがね。
芝居をしていても、つい、高みとか精度とか求めちゃうんだよ。
当然、そうなんだ。客の立場としては当たり前な事だし、上昇志向は大切。
確かにね。
安易にお互いの欠点を容認しあうのも本当の優しさでは無い気がする。
なんだけどさ。
キーになるのは当事者意識じゃないのかな。
批判も批評も、回りから見た、顔の無い傍観者の意識ではなく、
当事者としての意見だったら、それって建設的な事じゃないかな。

良く知られた金子みすずさんの詩
http://iso-labo.com/labo/words_of_MisuzuKaneko.html#watashitokotoritosuzuto

甘っちょろい許しあいは不毛だけれど
できもしない事を期待するのはもっと不毛。
要求するほうが逆に不誠実なんじゃないかな。

2018年2月24日土曜日

「オリジナル」か「原作物」か

まずマクラ。
非常に参考になるが、ネタバレ記事なので、見ていない方は読まないほうがいいかな。

「BANANA FISH」アニメ化製作発表で感じたこと
https://00.bulog.jp/archives/3169


俺は脚本を書くのが苦手だ。
ここ25年位で演出した中で、完全オリジナルが1本。(情報戦士オンブズマン)
設定は持ってきてセリフは新規ってのが2本(アルプス物語、恋ケ島)
3割位直したってのが3本、残りほぼ脚本通りが9本。
なので、原作・脚本をどう演出するか、って事には関心がある。

このブログを書いた@tsubuyakinews1 さんの論旨は納得できる。

まあ、所詮アニメも企業活動なので売れるという事を度外視はできない訳で。
ただ、品質という事についてはある程度責任を持つべきだろう、という気持ちはある。

つまり、食品会社が
「おいしいですよ、こんな良い素材を使ってます」って言う
売り言葉で販売したとき、その素材が生きる方向で売れば消費者は
納得するし、生産者も納得するだろう。

しかし、素材が生きない方向で料理されたら「ちょっと違うんじゃない」とか
買った人も「コスパ悪い」って言う感じにもなるだろう。

そして、一番の要点は、製作者側が知っててやってるか?って事。
素材の良さのABCDのうち、ABCを生かせないがDを生かすために
原作を使っている、を承知の上で製作し、そして宣伝しているか、って事。
一番大事なABCを深く理解しないで捨て去り、表面上のDだけ持ってきたら
なんか「判ってないなあ」「もったいない」感があるって事。
冒頭のブログでも、そんな感じで書かれていた。

そうでなければ、「オリジナル」でやった方がいい、かも、って事。
しかし、そこにも難しい問題点がある。現代を生きる我々、あと若い人なんかは
特にだが、過去に多種多様な物語が既に沢山世の中に出ている訳だ。

もっと前の世代であれば、脚本、楽譜、などのコード化された情報しか残って
いなかった。そして、過去の作品のテイストってのは全く残っていないから、
同じ作品をやっても、そもそも参照されるべき物が無い。
だからパクリだとか同じだ、って言う批判は受けない。

しかし、現在のテクノロジで、過去の作品がマンマ映像とか音楽とかで
残ってしまっている。だから、作品としての息吹のような物も含めて
比較対象されてしまう。

なので、「オリジナル」を作っても「あの作品のあれに似てるジャン」
「作品Aの設定と作品Bのキャラ使っただけじゃん」とか言う批判を受ける。

まあ、アマチュアであれば別に批判されても心情的に気持ち悪いだけではあるが、
商業的にはパクリといわれるとかなりのインパクトはあるはず。

では中間地点で考えて、
「原作のよさは踏まえつつ大きく書き換えさせてもらいました」
って方法もある。 これはコレでよくある方法論だが、まあ、原作者と良い
関係が無いと(心情的に無くても金額面のすり合わせが無いと)
面倒な事になる。


という事で、現代に生きる我々が作るアートってのは面倒なものではある。


最後に
若い頃に読んだ「ウオーターシップダウンのうさぎたち」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%95%E3%81%8E%E3%81%9F%E3%81%A1

うさぎたちの活躍や、全てのうさぎたちのキャラが立っていて、今でも
全てが記憶に残っているんだが、あるエピソードが出てくる。

主人公のヘイゼルたちが滞在したうさぎの村。
一見安全で充足して満ち足りた所だが、裏には絶望的、閉塞的な影が漂っている。
そこでは、ヘイゼルのような野うさぎ達が全く理解できない「芸術」が
重要視されている。

そのくだりが現在の日本とか、我々の周りの状況に良く似ているようにも思える。
そのエピーソードの最後でうさぎの村からヘイゼル達は去っていく。
生活が満ち足りていた村から、食べ物が無く、天敵だらけの野うさぎ生活へ。
そのエピソードは何か、今の日本の状況を、我々を取り巻く状況を暗示している
ように思えるのだ。

我々はどこへ行くのか。



2017年6月18日日曜日

ダークな話しですので・・・

可愛いですよね。ワンちゃん、ネコちゃん。
癒され動画見るの大好きです。

さて、こんなニュースがありました。
「ペットの死骸はゴミ袋に入れて処分 動物の葬儀施設不足の韓国で論争」
http://news.livedoor.com/topics/detail/13217666/
愛情があるペットが亡くなったら尊厳ある埋葬をして欲しいですよね。

しかし。

一方で、私達は生きている限り動物を殺して食べて生きている。
そして何の感慨も無く死体を食べて、食べられない部分はゴミにして焼却している。

知性や悟性から言ったら、豚だって牛だってある。
対象に愛情があるか無いかで人間の行動は変わる。

一方、人間も例外では無い。
「2039年には深刻な火葬場不足」https://ddnavi.com/news/381982/a/
人は死者にどこまで愛情を持ち続けられるのか。

3年後 女性の2人に1人が50歳以上になる
4年後 介護離職が大量発生する
5年後 「ひとり暮らし社会」が本格化する
6年後 3人に1人が65歳以上の「超・高齢者大国」へ
8年後 ついに東京都も人口減少へ

今から22年後、生きていれば私は77歳。
私自身は生きているかどうかは分からないが、日本のかなりの人たちは人々
生きることに精一杯の状況になる。

戦場で逃げる兵士は死んだ同僚の死体を持ち帰る事ができるか。
救急医療の現場のように、生きている人間のQOLを上げる方を優先するだろう。
静かなるサバイバルは既に始まっている。



2017年3月5日日曜日

企業の4割超が「正社員不足」

だそうです。
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1702/21/news116.html

まあ、当然ですね。
バブル崩壊後、企業は25年近く正社員をパートや派遣社員に置き換えてきたわけです。
で、ここで言ってる「正社員」というニュアンスは当然ただ雇用が安定している、
という事では無いわけです。

企業は資本主義の論理で動いているので下記のような人材が望ましい。
①その企業で必要とする特有のスキルを持つ
③残業を拒否しない
③産休・育休などの長期休暇を取らない
④無理を言っても辞めない

しかし上記は従業員と密接に連携する訳で、短期の従業員には望めず
「正社員」で無いと人は上記のような人材は望めません。
賃金・保険・労働協約等の待遇・身分保障で上記を確保しようとする訳です。

しかし、人というのはそんなに簡単に変わらない。
企業教育はただマニュアルを読んで促成栽培される訳では無く、
仕事をしながら徒弟教育でゆっくり育っていく訳です。
英語で言えばOJT(On the Job Traning)ですな。

だから待遇・身分保障をして「正社員」になった瞬間にその仕事が
高度にできるようにはならない。年単位のトレーニングでレベルアップ
していく。

で、教える方も同じ。教えるスキルを持たないと、教えられない。
しかしスキルを持った人はこの25年でどんどん高齢化・退職・
配置転換によってその現場にいない事も多い。
スキルを持った人が少ないから現場にスキルが蓄積されていない。
なので、教えようにも教えられない。

例えば私が従事している製造業などは、業態自体が海外に展開されており
そもそも現場が無くなっている。

なかなか簡単に解決する話しでは無いですな。

まあ、少子化、高齢化、海外の人の流入、教育の変遷、AI化・IT化、
グローバル化、テロ、温暖化、環境汚染、色々なファクターが絡むので分析は
簡単では無いですが、今日はここまで。


2016年11月20日日曜日

「逃げ恥」がリアルな訳を考えてみました。

50代男の分析なので、性別・年代違う方はどう思われるかわかりませんが。

男性7割・女性6割は「現在交際中の異性無し」
http://news.livedoor.com/article/detail/12306876/
だそうです。
良い悪いは別として今の若い方に関して実感はありますね。
で、理由を考えてみると・・・

恋愛・交際にはマニュアル、きまりが無いせいではないでしょうか。

今の若い方はやはり枠組みが無いとなかなか行動しにくい。
枠組みの中で行動するのは上手だが、枠組みを作る事自体については
あまり想像力が働いていない気がします。

その上で、対人関係の距離が遠くなっていますから、なおさら
その距離を埋める事ができない。

子供同士が遊んでいる時に、ちょっと喧嘩になる。
すると親が出ていって、「**ちゃんと仲良くしようね」
そういう事になる。それをしないと親同士が喧嘩になってしまう。
その延長で大人になると、自分たちでルールを作るのが苦手になる。

例えば気に入った相手にアプローチする。知人でも知人でなくても。
「知人」→「恋人」という人間関係のルール変更をする訳ですが
元々存在しなかったルールを作る訳ですから勇気がいるわけです。 
そしてアプローチをするリスクを取りたく無い。
嫌われたら損ですから。
だから付き合い自体が始まりにくい。

またもし始まったとしても。
人間関係ですから付き合いが始まっても常に順風満帆という訳ではない。
喧嘩もする。あたりまえです。
その中で片方が離れようとすると、昔は追いかけた訳です。蝶々のような
恋の駆け引きですね。
ところが今は追いかける事自体がかっこ悪い、悪、ストーカー
という事になってしまう。
去るものは追わない。だから離れる方向のベクトルだけが強化される。

そうしてどんどん男女関係は離れていく。
でも本能として近寄りたいという欲求は存在する訳です。
その中でつながろうという欲求をSNSがある程度は
満たしているわけですが、それよりもっと深く繋がりたい、
という思いを満たす事はできない訳ですね。

逃げ恥が上手に行っているのは(フィクションですが)
津崎が契約書を書いて、それに対してみくりが明確に応対している
せいでは無いのかと。
明確化すればそのルールに乗る事もできるし降りることもできるから。
だから今の若い人にとって逃げ恥がリアルに感じるのではないかと思います。

2016年11月12日土曜日

いいね!のテクノロジと民主主義

(0)まとめ
ネットは双方向のテクノロジである。ネット以前は直接的民主主義を
機能させる事は不可能だった。しかし、ネット以後はそれが可能になってしまった。
ネット以前は不可能だった、少数の民意をロス無く集約する事が可能になった。

意見が集約されると、人々の認知が変わる。認知が変われば行動が変わる。
社会を動かすのは人々の力である。
それにより、社会の構造も変化していくのではないか。

しかし、その際に、ネット以前の方式の民主主義(多数決の原則)をそのまま
当てはめて社会を運用するのは難しいのではないか?

結論は全くまとまっていないし、全くの問題提起であるが、以下に
実例を上げてみる。


(1)なぜ音楽聴き放題サービスのアーティストへの支払いはこんなにも少額なのか?
http://gigazine.net/news/20150320-why-spotify-pay-little/


音楽のストリーミングサービス
大手聴き放題サービスで、あるインディーズバンドの曲で支払われた金額は
月額0.9円との事。1回のではなく月額。

聴き放題サービスなので、その中で聞かれた回数の比率に応じて支払われるので、
よほど受け入れられる曲、聞かれる曲で無いとペイされない。
それはわかる。

これは、広い意味での民意ではないか。民主主義ではないか?従来型の民主主義ではないか。

ギガジンでは
「音楽などの芸術作品がすぐに評価されるとは限らず、また、人気のある作品が優れているとは限らないことも明らかです。優れた作品が多様性の中から生まれてくるという芸術作品の特性を考えたときに、公平ではあるものの露骨な「弱肉強食の世界」が広がる音楽聴き放題サービスの仕組みの中で、優れたアーティストが育っていくということは極めて難しいのかもしれません。」
と結んでいる。

それもわかる。

(2)「自分は犠牲になりたくない」自動運転車の抱える倫理ジレンマ、意見調査でも明らかに

http://www.gizmodo.jp/2016/06/moral_dilemma_of_autonomous_ca.html

自動運転カーが実用化されつつある。しかし自動運転カーをどう動かす?という
局面に立つと非常に難しい。

つまり、運転中に1人と3人とどちらかぶつかる必要があった時、自動運転カーは
どちらにハンドルを切るべきか。
プログラムだからどちらにもできる。それは自動車を作る側の意思で何にでもなる。
ではどうすべきか?1人を殺すのと3人を殺すのは?

また、運転者1人が死ぬのと歩行者10人が死ぬのをどちらを選択するのか?
オーナーは運転者が死ぬ方自動車を買うか?
売れない自動車は普及しない。消費行動はある意味での民主主義である。

自動運転カーの実用化の障害は技術ではなく、むしろ倫理だと思われる。
しかも、その倫理も民意で変わる。民意も技術の進化で変わる。
歩行者より運転者を優先する自動運転カーが売れたとする。
その事実が社会に公表されたら、その製造・販売会社は社会に受け入れられるのか?

(3)検索エンジンの歴史からみるGoogle検索アルゴリズムの変遷
http://joesbar.blog.jp/archives/1031100211.html

私の実感としては、googleの検索技術、ページランク登場以前は検索エンジンの
精度は非常に低いものだった。これがgoogle登場以後、検索が「使い物になる」
という感じになった、と記憶している。

これは基本概念としてのページランク技術、つまり
「人々から良いと評価される物は良い」
というアイデアが良かったのだと思う。
まさに、これは民意。直接型民主主義である。

しかし、これに対して技術で結果を変えるような技術も色々出てきた。
いいね、されるように見せかけるSEO技術。

多数決の技術だから、多数を抽出するテクノロジにより、色々な結論が
導かれてしまう。
選挙区を変えて選挙結果が変わる、ゲリマンダーという施策と同じ。