2018年2月24日土曜日

「オリジナル」か「原作物」か

まずマクラ。
非常に参考になるが、ネタバレ記事なので、見ていない方は読まないほうがいいかな。

「BANANA FISH」アニメ化製作発表で感じたこと
https://00.bulog.jp/archives/3169


俺は脚本を書くのが苦手だ。
ここ25年位で演出した中で、完全オリジナルが1本。(情報戦士オンブズマン)
設定は持ってきてセリフは新規ってのが2本(アルプス物語、恋ケ島)
3割位直したってのが3本、残りほぼ脚本通りが9本。
なので、原作・脚本をどう演出するか、って事には関心がある。

このブログを書いた@tsubuyakinews1 さんの論旨は納得できる。

まあ、所詮アニメも企業活動なので売れるという事を度外視はできない訳で。
ただ、品質という事についてはある程度責任を持つべきだろう、という気持ちはある。

つまり、食品会社が
「おいしいですよ、こんな良い素材を使ってます」って言う
売り言葉で販売したとき、その素材が生きる方向で売れば消費者は
納得するし、生産者も納得するだろう。

しかし、素材が生きない方向で料理されたら「ちょっと違うんじゃない」とか
買った人も「コスパ悪い」って言う感じにもなるだろう。

そして、一番の要点は、製作者側が知っててやってるか?って事。
素材の良さのABCDのうち、ABCを生かせないがDを生かすために
原作を使っている、を承知の上で製作し、そして宣伝しているか、って事。
一番大事なABCを深く理解しないで捨て去り、表面上のDだけ持ってきたら
なんか「判ってないなあ」「もったいない」感があるって事。
冒頭のブログでも、そんな感じで書かれていた。

そうでなければ、「オリジナル」でやった方がいい、かも、って事。
しかし、そこにも難しい問題点がある。現代を生きる我々、あと若い人なんかは
特にだが、過去に多種多様な物語が既に沢山世の中に出ている訳だ。

もっと前の世代であれば、脚本、楽譜、などのコード化された情報しか残って
いなかった。そして、過去の作品のテイストってのは全く残っていないから、
同じ作品をやっても、そもそも参照されるべき物が無い。
だからパクリだとか同じだ、って言う批判は受けない。

しかし、現在のテクノロジで、過去の作品がマンマ映像とか音楽とかで
残ってしまっている。だから、作品としての息吹のような物も含めて
比較対象されてしまう。

なので、「オリジナル」を作っても「あの作品のあれに似てるジャン」
「作品Aの設定と作品Bのキャラ使っただけじゃん」とか言う批判を受ける。

まあ、アマチュアであれば別に批判されても心情的に気持ち悪いだけではあるが、
商業的にはパクリといわれるとかなりのインパクトはあるはず。

では中間地点で考えて、
「原作のよさは踏まえつつ大きく書き換えさせてもらいました」
って方法もある。 これはコレでよくある方法論だが、まあ、原作者と良い
関係が無いと(心情的に無くても金額面のすり合わせが無いと)
面倒な事になる。


という事で、現代に生きる我々が作るアートってのは面倒なものではある。


最後に
若い頃に読んだ「ウオーターシップダウンのうさぎたち」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%95%E3%81%8E%E3%81%9F%E3%81%A1

うさぎたちの活躍や、全てのうさぎたちのキャラが立っていて、今でも
全てが記憶に残っているんだが、あるエピソードが出てくる。

主人公のヘイゼルたちが滞在したうさぎの村。
一見安全で充足して満ち足りた所だが、裏には絶望的、閉塞的な影が漂っている。
そこでは、ヘイゼルのような野うさぎ達が全く理解できない「芸術」が
重要視されている。

そのくだりが現在の日本とか、我々の周りの状況に良く似ているようにも思える。
そのエピーソードの最後でうさぎの村からヘイゼル達は去っていく。
生活が満ち足りていた村から、食べ物が無く、天敵だらけの野うさぎ生活へ。
そのエピソードは何か、今の日本の状況を、我々を取り巻く状況を暗示している
ように思えるのだ。

我々はどこへ行くのか。