2018年5月19日土曜日

わたしと小鳥と鈴と

この前東京で見た。
電車の中で何組も見た子供連れ。 特に母親は「人に迷惑をかけないように」
の意識が強いのか、もの凄く遠慮しつつ電車に乗っている感じがした。
確かに人に迷惑をかけてはいけない。言葉で言えば。
アンタら勝手に子供作って勝手に外出してるんだ。ワタシの邪魔をするな。
でも、子供は、赤ん坊はそんな理屈聞いてくれない。
社会と子供の板ばさみになるのは親。

日本の社会全体が他者に神のような絶対的正しさを求めてる。
https://twitter.com/yoshimuramanman/status/996034472154808320


そして安くて質の良いものを求める僕ら消費者がブラック企業を作っている。
https://twitter.com/hose0123/status/993697270116708353
確かに世界の中の日本を考えたら、興隆してくるアジア・アフリカの
経済力を考えたら日本も停滞はしていられない。

今の政治経済でのバッシング、何かベクトルが違うと思う。
努力する方向が違うんじゃないか。

言ったほう、要求した方は要求したから、言ったから責任を逃れた
みたいな感じになってる。

自分もそうなんだがね。
芝居をしていても、つい、高みとか精度とか求めちゃうんだよ。
当然、そうなんだ。客の立場としては当たり前な事だし、上昇志向は大切。
確かにね。
安易にお互いの欠点を容認しあうのも本当の優しさでは無い気がする。
なんだけどさ。
キーになるのは当事者意識じゃないのかな。
批判も批評も、回りから見た、顔の無い傍観者の意識ではなく、
当事者としての意見だったら、それって建設的な事じゃないかな。

良く知られた金子みすずさんの詩
http://iso-labo.com/labo/words_of_MisuzuKaneko.html#watashitokotoritosuzuto

甘っちょろい許しあいは不毛だけれど
できもしない事を期待するのはもっと不毛。
要求するほうが逆に不誠実なんじゃないかな。

2018年5月7日月曜日

ハコブネ2040

西暦2040年。
地球は死に瀕していた。
温暖化による異常気象、温室化ガスの膨大な放出、海面上昇、巨大地震、環境汚染。
身を守る術が無い希少種がまず絶滅していった。
そして次に人間環境の近くにいる動植物相もつぎつぎと絶滅していき、
残る生物は人類と人類のために生きている共生種のみ。
ゲノムの多様性は失われ地球には人類とその僕だけしか残らなくなっていた。

しかし、その人類もまた安泰ではなかった。
人種、国境、階級、主義、宗教。自分達以外の存在を認めない狭量な
精神がお互いを罵り合い殺しあう。
富める者はより富み分配しようとせず、貧しい者はより貧しくなっていく。
人々の協調性は萎縮し進取の気質は失われていった。
西暦2040年。
地球は死に瀕していた。

「ハコブネ2040」




2018年4月23日月曜日

ドクトル・ジバゴを見た

古き良き映画。

長い。
3時間20分もある作品で、若い頃見た時はとてつもなく退屈だった。
今もずっとは見ていられないので細切れで見ているんだが、
もう2回目を見ている。

ロシア革命、美女、詩、俗物、不倫、戦争、飢え、裏切り。
全てがリアルな感じがする。
もちろん、映画だし、ストーリーだって展開だって見せ方だって
いわゆる「リアル」では無いはず。
ご都合主義で、こんな事あるわけない、と言う話しなのかもしれん。

だが、そんなアラを探す気にならない。
結局、世の中にはこういう事はあるだろう、という個別のストーリー、
エピソードの寄せ集めのような気もする。
そして、全ての感情がリアルなんだ。
ストーリーなんかではない。感情がリアルなんだ。体験がリアルなんだ。

主人公のユーリもラーラも、普通の人間。善も強さももつと同様
弱さ、ずるさ、も持つ。でも、だからこそ気持ちに訴えてくるのかも。
成人君子、正しいだけ、強いだけの人間には共感できない。
努力して、正しい道を歩もうとして、幸せになろうとして、
でもなれなくて、運命に翻弄される存在。人間の悲しさ。
だから気持が伝わり、リアルなんだ。

そして、美しいヒロイン、ラーラ。
ためしに女優のジュリー・クリスティーを見てみる。
もちろん、美しい。
しかしラーラの美しさでは無い。
ロシア革命の中を生きて死んだこのラーラではない。

ジバゴが詩を捧げた、作家ボリス・パステルナークが書いた、
監督デビッド・リーンが作った、女優ジュリー・クリスティーが、
そして俳優オマーシャリフが作った美しい幻。

音楽のモーリス・ジャールが作る美しい世界の中の
存在だからこそラーラは美しいのだ。

素晴らしい映画だ。


2018年2月24日土曜日

「オリジナル」か「原作物」か

まずマクラ。
非常に参考になるが、ネタバレ記事なので、見ていない方は読まないほうがいいかな。

「BANANA FISH」アニメ化製作発表で感じたこと
https://00.bulog.jp/archives/3169


俺は脚本を書くのが苦手だ。
ここ25年位で演出した中で、完全オリジナルが1本。(情報戦士オンブズマン)
設定は持ってきてセリフは新規ってのが2本(アルプス物語、恋ケ島)
3割位直したってのが3本、残りほぼ脚本通りが9本。
なので、原作・脚本をどう演出するか、って事には関心がある。

このブログを書いた@tsubuyakinews1 さんの論旨は納得できる。

まあ、所詮アニメも企業活動なので売れるという事を度外視はできない訳で。
ただ、品質という事についてはある程度責任を持つべきだろう、という気持ちはある。

つまり、食品会社が
「おいしいですよ、こんな良い素材を使ってます」って言う
売り言葉で販売したとき、その素材が生きる方向で売れば消費者は
納得するし、生産者も納得するだろう。

しかし、素材が生きない方向で料理されたら「ちょっと違うんじゃない」とか
買った人も「コスパ悪い」って言う感じにもなるだろう。

そして、一番の要点は、製作者側が知っててやってるか?って事。
素材の良さのABCDのうち、ABCを生かせないがDを生かすために
原作を使っている、を承知の上で製作し、そして宣伝しているか、って事。
一番大事なABCを深く理解しないで捨て去り、表面上のDだけ持ってきたら
なんか「判ってないなあ」「もったいない」感があるって事。
冒頭のブログでも、そんな感じで書かれていた。

そうでなければ、「オリジナル」でやった方がいい、かも、って事。
しかし、そこにも難しい問題点がある。現代を生きる我々、あと若い人なんかは
特にだが、過去に多種多様な物語が既に沢山世の中に出ている訳だ。

もっと前の世代であれば、脚本、楽譜、などのコード化された情報しか残って
いなかった。そして、過去の作品のテイストってのは全く残っていないから、
同じ作品をやっても、そもそも参照されるべき物が無い。
だからパクリだとか同じだ、って言う批判は受けない。

しかし、現在のテクノロジで、過去の作品がマンマ映像とか音楽とかで
残ってしまっている。だから、作品としての息吹のような物も含めて
比較対象されてしまう。

なので、「オリジナル」を作っても「あの作品のあれに似てるジャン」
「作品Aの設定と作品Bのキャラ使っただけじゃん」とか言う批判を受ける。

まあ、アマチュアであれば別に批判されても心情的に気持ち悪いだけではあるが、
商業的にはパクリといわれるとかなりのインパクトはあるはず。

では中間地点で考えて、
「原作のよさは踏まえつつ大きく書き換えさせてもらいました」
って方法もある。 これはコレでよくある方法論だが、まあ、原作者と良い
関係が無いと(心情的に無くても金額面のすり合わせが無いと)
面倒な事になる。


という事で、現代に生きる我々が作るアートってのは面倒なものではある。


最後に
若い頃に読んだ「ウオーターシップダウンのうさぎたち」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%95%E3%81%8E%E3%81%9F%E3%81%A1

うさぎたちの活躍や、全てのうさぎたちのキャラが立っていて、今でも
全てが記憶に残っているんだが、あるエピソードが出てくる。

主人公のヘイゼルたちが滞在したうさぎの村。
一見安全で充足して満ち足りた所だが、裏には絶望的、閉塞的な影が漂っている。
そこでは、ヘイゼルのような野うさぎ達が全く理解できない「芸術」が
重要視されている。

そのくだりが現在の日本とか、我々の周りの状況に良く似ているようにも思える。
そのエピーソードの最後でうさぎの村からヘイゼル達は去っていく。
生活が満ち足りていた村から、食べ物が無く、天敵だらけの野うさぎ生活へ。
そのエピソードは何か、今の日本の状況を、我々を取り巻く状況を暗示している
ように思えるのだ。

我々はどこへ行くのか。