2019年12月30日月曜日

商品としての「日本」

中国でも買える商品を中国人が日本で買う、という報道を見た。
理由は「同じ商品でも品質が信用できるから」という事らしい。
実際、日頃自分で物を買うにしてもそういう感覚はある。

あと、例えば、日本の交通システムでの定時刻運行の正確さ。
これも時間精度としての品質が高いと言い換える事ができる。

さて「日本製品の品質は高い(高かった)」が正しい前提で考える。
さて、品質保証には付加価値がある。(保証書の有効期限を伸ばすという有料オプションがある事から自明である。)

グローバル化が成される以前の日本の中でその品質保証をするのは、日本人としてのあたりまえだった。 同じ金額でも、品質は当たり前に良く、品質が悪い=クレームの対象だった。 正しい事が当たり前の村社会文化がこの日本式の高度な品質保証システムを作り上げてきた。 しかし、ここで見落とされているのは、日本式の製造・勤労・社会システムにかかるコストである。実際は品質保証には手間と時間がかかる。1000個中5個不良がある事を認める社会(私の実感としての海外品質保証レベル)と1個も認めない社会(日本)ではかかるコストが大きく変わる。

今まではそのコストは日本社会の中でお互いが持ちつ持たれつという事で吸収されていたので、表には見えなかった。品質が良いものを買って(部品)、品質が良い世界の中で(時間通りに動く電車)、品質が良い人材が(高い識字率、進学率)働くから、安いコストで良いものを作る事が出来ていたわけだ。 

しかし、グローバル化がなされて日本が階級社会になり、社会全体に余裕がなくなってきた。部品自体も安いが品質が保証されない物が海外から入ってくる。例えば食料も含めて。すると、その品質保証をするためには、今まで容易にできていた品質保証ができなくなる。 不良率0.01%の物を100個組み合わせても不良率は1%だが、不良率1%の物を組み合わせたら100%不良となる。(まあこれは極端だが)

そこで、同じ金額で物を売る、もしくは安い海外製品と競合して物を売るためには、社会全体で労働者が身を粉にして働く必要が出てくる。
これがブラック企業を産む。そして労働者を尊重するホワイト企業は企業間競争に敗れて倒産する。

これが現在の日本で起きている事、なのでは無いかと言う身も蓋も無い分析のお話。

2019年12月1日日曜日

萩尾望都さん/「ポーの一族・春の夢」読みました。

40年ぶりという事で出版されたポーの一族の新作。
連載1回目読んで、以降いつ読むかどうしようかと迷っていたが、
意を決して単行本入手。

全然まとまっていないが、まずは書評。

ティーンの時に読んで、俺の人生の感情部分をほぼ決定づけた既刊シリーズ。
今回の作品は、それとは「違う」物だ。

もちろん違う事は悪いことでは無いが、とにかく違う。
子供が成長して大人になった時、個性の多くは引き継がれるが、
やはり時の流れは人間を大きく変える。

「春の夢」もそうだ。

既刊シリーズではポー=吸血鬼一族だったが、今回は様々な吸血鬼の
種族の中の一種族という位置づけに変化した。いや、変化した訳では
無いのかもしれないが、少なくとも外部の種族は描かれていなかった。

そしてキング・ポー、並びにポーの一族の生態がリアルになった。
人格と生態と特性と。既刊の持つファンタジー色から明確な
細部が描かれるSF的な展開がなされた。
そして、既刊では一枚岩に見えた一族だが、今回は別々の意思と行動原理を
持つ個人となって対立や協調を行っている。

そして人間社会の時代背景。
既刊の中では、個人と生存など、やはり心情的、神話的、な色が強かった。
「小鳥の巣」でも戦争や社会性もあったが、やはりファンタジー色が
濃かったのでは無いかと思う。
時代が下って「エディス」でもリアルな情景はあったが、やはりメインは
心情的な物で、時代が下ったからリアルになっただけ、のように見える。

しかし、新刊では戦争と時代に投げ込まれた人間という小さな存在とか
小さな社会での悪、親族間での葛藤と偽善とか、よりリアルに描かれて
いるように見える。

ただ一つひっかかった点。
エドガーとアランの関係だが、新キャラクタのファルカの存在で
多少は揺らぐのだが、結局、既刊から維持確定されて変化が無い。

なぜ今になってポーの一族か?なぜ違うシリーズでなかったのか、
という疑問に対して、エドガーとアランを描きたかった、そうでなければ
描けなかった、という萩尾望都の回答なのかもしれない。

しかし、少なくとも今作においては、エドガーにとってのアランの存在が
薄い気がした。上記に述べたような既刊と今作の対比を考えると
今作で描きたかったテーマや物に対して、アランが必要不可欠な
存在ではなかったように見える。既刊でも、そもそも不死の存在である
エドガーは元々明確な存在理由を見失っているように見えて、その中で
唯一、アランがその存在意義を担っていた。

しかし、これについては後述するが、俺の理解力不足という可能性も
充分ある。正直この作品を良く理解していないので。それは認める。


萩尾望都は40年を経て良く再開する目的意識を持ったと思う。
なぜ、という理由は本人にはあるとは思うし、それについては
書かない。
が、製作時70歳近くなってなおこのような緻密な作品を描ける
というのは、やはりかけがえが無い作家なのだと思う。
天才という簡単な評価だけでは論じる事はできないだろうから。


さて、作品評の後で。

この作品を読んで、もう一つ衝撃的だったのは、俺自体の精神の退化だ。
作品の詳細を理解できない。複雑な社会性、キャラクタの多様性を理解する
能力がなくなっている。チャーリーゴードンのように。
過去に読んだ作品は過去に素晴らしさを理解しているから素晴らしさを
感じる能力が継続できている。
しかし、新作だと、頭脳では素晴らしい作品だという事を理解できている。
ぼんやりとは。しかし俺自体の理解する能力が半減しているから
その素晴らしさを十全に受け入れる力がなくなっている。

人間はいつか死ぬ。
生命活動のように急激に訪れる死もあれば、
老化のように緩やかに訪れる死もある。それは分かっているのだが
やはり現実という物は「そういう物だ」。スローターハウス5のように。
それを気付かされた作品だった。