2017年10月5日木曜日

演目、脚本、人生

最近の出来事を色々からめて書いてみよう。
最初に書くが結論は無い。話題の提起のみ。

(1)ちひろブルースさんの「アルケナル」批判について。
演目、内容、どこでやるか、誰が見るか、何のためにやるか。
それについて言及されている。彼の主張は彼のものだから
それはそれとして。

そもそも演劇はなんのためにやるのか。
プロは生活のためにやる。と思われるが、本当にそうなのか?
食えない役者はなぜ役者などをやるのか?そういう意味では
食えないスポーツ選手も同じだが、「パンのみにて生きるのにあらず。」

アマチュアの演劇は?当然100人いれば違う思惑があり、
意思があるだろう。
でも音楽でなく演劇、絵画でなく演劇、文章やマンガやダンスや動画でなく
演劇を選んでいる人は何を求めているのか?
(もちろんたまたま近くにあった、という偶然もあるのだが)

演劇には言葉、表現、舞台というキーワードがある。つまり演劇は
「世界」をそのまま切り取って観客に提示している、という事なのではないか。

そして、多種多様な世界から一部を切り取る、という行為はどこを切り取るか、
という選択にも非常な意味がある。
例えばカメラマンが世界の一部をフレームに収める時、そこには明確な
意思が存在する。
大体においては演出、役者、プロデューサなどが、その意思と感情と
世界観を切り取って観客に提示する訳だが。
そして誰に見せるか、それにも明確な意思が存在するのかもしれぬ。
それがちひろさんのこだわる「学校でやる意味について」という事なのか。


(2)高校演劇地区大会での講評。
演技よりも演目選定、脚本選定について多大な時間がさかれている。
多分判定の基準にも多大な影響があるのだろう。
そもそも判定基準が確定・公表されておらず、合議制なのだから
ある程度の偏りがあってもそれは仕方がない。
人間がやる仕組みだから完璧な物は無い。
現在の仕組みではベターと言える。
しかし完璧で無いものを完璧だとは言えない筈。

さて、ここで1つ問題提起。
例えばネット台本については「論外だ」と毎度批評されている。
また脚本の不備についても毎度批評されている。

例えば脚本選定が「良くなかった」としよう。であれば、良い脚本選定方法
という物について明文化されたガイドラインを作るべきだろう。
そしてそれを提示した上で各校に選定をさせるべきだろう。
生徒は短い高校生活の貴重な3ヶ月を選んだ脚本にかけてくる訳である。
だからそもそも良くない選定をしないようにさせる方がいいと思う。

当然その基準を明文化すると「良い」か「悪い」かは逆に審査員が
「何が正しい演劇か」という事を公開する事になり、それは場合によっては
それで批評を受けるかもしれない。
しかし、それはそれで仕方がない。
生徒の活動に無限の向上を求めるのであれば、大人達は自分の判断や
仕組みについても無限の向上を求めなければなるまい。
 
(3)自分の次回作。
やりたい作品とは何か?世界に対して、観客に対して、何か意味のある
事が言えれば。「今」この瞬間に、「俺」という存在が伝えるべき事は?
遊びだから馬鹿な話でもいい。
でも遊びだからマジになってもいい。
どんな演目をやっても誰も困らない。筈。だから真面目に選びたい。

たとえばプロの映画監督とかが次回作を選ぶ場合。
お金という結果を出してきた監督であればある程度自分でやりたい事を
やれるだろう。でも逆に次もお金、という制約をつけられる。

そういう意味ではアマチュアの方が制約はないかもしれない。
方法として、現実解としてお金や人や全てに制約がある。
でも「やりたい事」「伝えたいこと」に関する制約は少ないかもしれない。

なんかまとまらない。
しかし今の思いの丈を書いてみた。





2017年9月25日月曜日

照明操作の考え方

照明操作はわかりにくい、かもしれない。
これは「なぜそれをやる必要があるのか?」概念が掴めないから
ではないかなと思われる。
実際の操作は別として「なぜ?」という概念につき説明してみる。
概念が分かれば「なぜ」それをやらなければならないか?が理解できると思う。

1.まずは簡単な操作
(1)舞台が真っ暗だとする。
(2)センターにスポットが1本当たるようにスポットがセットしてある、
  とする。
(3)スポットと1番のボリューム(フェーダーと呼ぶ)がプログラム
  されているとする。
(4)1番のボリュームを上に上げるとスポットが明るくなり、最低にすると
  真っ暗になる。

2.次
(1)上記1にプラスして上手にスポットがあり、2番のフェーダにプログラム
 されているとする。
(2)1番と2番を同時に上げると両方明るくなり、下げると暗くなる。

3.次&問題点
(1)上記2にプラスして下手にスポットがあり3番にプログラムされているとする。
(2)1,2,3を同時に上げるには手が1本足りない。 1,2を上げて
 その後に3を上げたら目的の照明効果が得られない。ではどうするか? 
4.解決策
(1)照明卓には左右方向に1,2,3というフェーダが並んでいるが、
 その同じ物が1段、2段と上下に並んでいる。
(2)1段目のフェーダーの状態が現在の舞台の照明の状態になるよう、
  照明卓がプログラミングされている、とする。そして2段めのフェーダーの
  状態は舞台照明には「リアルタイムには反映されないようになっている」
  つまり2段めのフェーダーはいくら変えても「今の」舞台の照明には
  全く影響しない。←これが大事
5.実際の操作例:
(1)今がセンターのみ点灯で、次のシーンで、センターが消灯、上手、下手、のスポットが同時に点くようにしたい、とする。
(2)その目的のために1段目のフェーダでは1が最大、2,3とも全て最低にしておく。
(3)2段めのフェーダーは1が最低,2,3は点灯させておく。 しかし、4(1)で
 書いたように、2段めのフェーダー状態は「今の」照明状態に反映しないので、
  やはり舞台はセンターのみ点灯のまま。
(4)さてここで、4項で説明しなかった「クロスフェーダ」という物を説明する。
 これは「上にすると1段目のフェーダー状態を今の舞台に再現されるが、下にすると舞台が暗になる」 という機能のスライダーAと「下にすると2段めのフェーダー状態を舞台に再現されるが上にするとは暗にする」スライダーBの2つが並んでいる物である。
(5)上記は説明しなかったが、4(2)の状態は上記クロスフェーダA、Bが両方上になっている状態である。 再説明するとクロスフェーダAが上なので1段目のフェーダー状態が再現される。しかしクロスフェーダBも上なので2段めのフェーダー状態は反映されない状態になっている。 
(6)さて、これも説明しなかったがAとBの足し算で実際の舞台照明は再現される。
 (5)項の結果は1段目+暗=1段目の状態になっている。現在1段目は1=センター点灯のみ。
(7)次にクロスフェーダーABを同時に下に下げる。ABは並んでいるから1つの手で下げられる。
(8)クロスフェーダAが下がるから1段目の状態から照明は暗に変わる。しかしBも下がるから2段めの状態(2,3が点灯)が今の舞台に反映されるようになり、つまり上手下手が点灯。 実際の舞台の照明はAとBの足し算で行われるので結果は
①センターのみ点灯→②センターが消灯して上手下手が同時に点灯
という事が滑らかに行われる。

6.最後に
(1)上記は概念なので、実際はもっと複雑。しかしイメージはそういう事。
(2)上記は1回の場面変更だが、実際は何シーンもあればシーン分だけ操作を繰り返す
 事になる。
(3)上記はマニュアル卓、なので、上記のような面倒な作業が必要。
 しかし、最近はメモリ卓が多いのでかなり簡単になっている。
 つまり、「次に表示するフェーダ」上記例だと2段めのフェーダーの内容が
 メモリに書き込まれている。(実際は小人さんが書いてくれるわけではないんで、
 事前にホールの人が書いてくれる)操作する人は上記のクロスフェーダABを操作
 するだけで、メモリされた内容が舞台照明として再現できる、という事になる。

2017年6月18日日曜日

ダークな話しですので・・・

可愛いですよね。ワンちゃん、ネコちゃん。
癒され動画見るの大好きです。

さて、こんなニュースがありました。
「ペットの死骸はゴミ袋に入れて処分 動物の葬儀施設不足の韓国で論争」
http://news.livedoor.com/topics/detail/13217666/
愛情があるペットが亡くなったら尊厳ある埋葬をして欲しいですよね。

しかし。

一方で、私達は生きている限り動物を殺して食べて生きている。
そして何の感慨も無く死体を食べて、食べられない部分はゴミにして焼却している。

知性や悟性から言ったら、豚だって牛だってある。
対象に愛情があるか無いかで人間の行動は変わる。

一方、人間も例外では無い。
「2039年には深刻な火葬場不足」https://ddnavi.com/news/381982/a/
人は死者にどこまで愛情を持ち続けられるのか。

3年後 女性の2人に1人が50歳以上になる
4年後 介護離職が大量発生する
5年後 「ひとり暮らし社会」が本格化する
6年後 3人に1人が65歳以上の「超・高齢者大国」へ
8年後 ついに東京都も人口減少へ

今から22年後、生きていれば私は77歳。
私自身は生きているかどうかは分からないが、日本のかなりの人たちは人々
生きることに精一杯の状況になる。

戦場で逃げる兵士は死んだ同僚の死体を持ち帰る事ができるか。
救急医療の現場のように、生きている人間のQOLを上げる方を優先するだろう。
静かなるサバイバルは既に始まっている。



2017年3月5日日曜日

企業の4割超が「正社員不足」

だそうです。
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1702/21/news116.html

まあ、当然ですね。
バブル崩壊後、企業は25年近く正社員をパートや派遣社員に置き換えてきたわけです。
で、ここで言ってる「正社員」というニュアンスは当然ただ雇用が安定している、
という事では無いわけです。

企業は資本主義の論理で動いているので下記のような人材が望ましい。
①その企業で必要とする特有のスキルを持つ
③残業を拒否しない
③産休・育休などの長期休暇を取らない
④無理を言っても辞めない

しかし上記は従業員と密接に連携する訳で、短期の従業員には望めず
「正社員」で無いと人は上記のような人材は望めません。
賃金・保険・労働協約等の待遇・身分保障で上記を確保しようとする訳です。

しかし、人というのはそんなに簡単に変わらない。
企業教育はただマニュアルを読んで促成栽培される訳では無く、
仕事をしながら徒弟教育でゆっくり育っていく訳です。
英語で言えばOJT(On the Job Traning)ですな。

だから待遇・身分保障をして「正社員」になった瞬間にその仕事が
高度にできるようにはならない。年単位のトレーニングでレベルアップ
していく。

で、教える方も同じ。教えるスキルを持たないと、教えられない。
しかしスキルを持った人はこの25年でどんどん高齢化・退職・
配置転換によってその現場にいない事も多い。
スキルを持った人が少ないから現場にスキルが蓄積されていない。
なので、教えようにも教えられない。

例えば私が従事している製造業などは、業態自体が海外に展開されており
そもそも現場が無くなっている。

なかなか簡単に解決する話しでは無いですな。

まあ、少子化、高齢化、海外の人の流入、教育の変遷、AI化・IT化、
グローバル化、テロ、温暖化、環境汚染、色々なファクターが絡むので分析は
簡単では無いですが、今日はここまで。


2017年1月22日日曜日

母のこと

母が認知症になった。

発端は10月後半の従兄弟からの電話だった。
85歳の母は従兄弟の会社で50年近く仕事をしていた。
数ヶ月前から、言動がおかしくなってきたと言う。

同居している兄に確認し、相談した上で翌日、仕事をやめるよう言った。
母はその言葉を噛みしめるよう繰り返し、頷き、そして翌日から
行くのを辞めた。

それから3ヶ月。
認知症と診断され、薬を飲み始めたが、以前とは行動が変わってきた。
特有の症状で今まで通っていた体操や敬老会などにも
行けなくなってきた。
日々、行動がかわっていき、会話や意思の疎通ができなくなり、
せん妄が激しくなり、昼夜も逆転した。
兄がやっていた生活サポートも限界になり、そして入院する事になった。
病院でも薬が合わずに止めてしまったから、もう薬学的治療はできず、
認知症に関しては今は自然に任せているという状況だ。

母は変わってしまった。
穏やかで抑制が効いて、いつも他人の事、特に家族の事を慮る事ができた母。
人の話を聞いて、頷いてくれて、世間話をする。仕事、子供、病気。
ただそれだけだったが、それが失われてみるといかに貴重な時間だったか。

今の母は常に遠くを見て、話をしていても、常にどこかへ
行こうとしている。母にしかわからないどこかに。
家族、親戚の近況を話してみるが、殆ど会話が続かない。
目の前にいるのは母ではなく、存在しなかった母の姉妹のよう。


興味をひくと思って昔の話を聞いてみた。
でも、以前してくれた話をもうできない。しようと思っていない。
俺の子供の頃の事。良いことも悪い事もあっただろう会社の事。
酒と借金に悩まされた父の事。

結婚前の事、仕事の事、つきあっていた人、子供の頃の思い出。
嫌なこと、辛かったこと、楽しかった事。希望、絶望。

俺の子供の頃。
酔った父の罵声の中で母と俺たちは一蓮托生だったと思う。
俺の中ではある意味戦友のような感覚もあった。
父が死に、平穏な数年が経ち、いつまでもこのままでいられる筈は
無い事は頭では知っているつもりだった。

でも、現実は違った。
母の心はもう帰ってこない。世界で、地球で、この世でたった1つしかない
母の人生が消えてしまった。
普通の、あたりまえの人生。でも、だからこそ貴重な人生が、伝える人も無く
空に消えてしまった。
母の沈黙の中で、その事実を実感して俺の中も喪失感で一杯になった。
生きる意味を感じられなくなった。
なんのために生きるのか。真の意味で俺に存在価値など無い。

この前、言ってみた。
産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。長い間大変だっただろう?
返事は無かった。
遅すぎた。俺のありがとうはとてつもなく遅すぎて、もう届かなかった。
俺は馬鹿だ。

でも、と思う。
目の前にはいないが、母は消えてはいない、とも思う。
時空の彼方、85年間の過去の時空には今も母の人生は存在し、
母の心は存在している。
もう連絡が取れない、遠い異国に住んでいるんだと思う。
そう思いたい。

そして、俺にもまだ少しは義務が残っているのかもしれない。
やらねば。
俺を生み、育ててくれた母。
今は異国にいる母に顔向けできないから。
明日には変わる俺の心だけれど、今はそう思っていよう。