我々に与える影響を考えてみた。
コビッド19の致死率が高い。1%だか2%だか3%だか。
結局致死率という指標が感染者のうちの死亡者としても、感染している
かどうかという母数自体が正確にはわからないし、重篤者が得られる
医療の状況によっても変わってくる。だから正確な値はわからない。
しかし、10%では無いし、50%では無いし、0.1%では無い。だろう。
ちなみに、スペイン風邪では人類の3割が感染し、その5%が死亡。
つまり人類の2%位が死亡した。
出典
「1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200228-00165191/
さて。
人類にとっての一番の脅威は「感染する」という事だと思う。
人類の発展は、自分を助けるための利己的行動と、社会的な協業活動が一体となって
来たことでなされてきたと思う。
太古、例えば狩猟生活をしていた人間は、ばらばらに生き、
基本自分のためにだけ行動していた。
現在は、当然科学技術や社会的インフラという物理的な物はあるとしても、
基本、社会というネットワークにより、自分のための利己的行動が社会全体の
利益になっている。そして、それが効率化と科学技術の発達を急激に
推し進めてきた。
例えば自分の生活をするために農業をすれば、それにより食料を得られる人がいる。
自分の給料のために、自動車メーカで車を作れば、社会的には農作物を
消費地まで効率的に輸送できる。
そしてお金(現金だけでなく信用という意味でもいい)という形ですべてが
つながって、自分のための活動が他人のための活動になっている。
そしてグローバリゼーションによって、自分のための活動が人類のための
活動になっていた。そして、それはあらゆる局面で効率的に人類を進歩
させてきた。
仏教でいう、天国での長い箸状態だったわけだ。
1kara.tulip-k.jp/buddhism/2019077493.html
もし惨禍があったとしても、巨大地震のような災害だったり、致死性の高い
病気だとしても非感染症だったら、他人のための支援活動が自分を危険にさらす
割合が低い。
しかし、パンデミック状態では、その活動の伝達が阻害されてしまう。
自衛のため他人に協力する事ができない。
そして自分と他人のために行動すると、それにより直接自分が危険になってしまう。
だから自分のためにだけ行動する。その活動は狩猟民の生活と同じく極めて効率が悪い。
そして。
貨幣経済の本質はリアルな関係(商品という物も含む)を裏で支える信用だと思う。
しかし、感染によりリアルな関係が危険となったら、その対価である
貨幣も回らなくなる。
これはヤバイ。
危機での不安感により、自分だけを守ろうとする心理が働き、仏教でいう、
地獄での長い箸と言う状態になる訳だ。
さて。
分析はこれまでとして、さあ、どうする?って事だが。
すぐ効く特効薬は無い。(感染症としての、では無く、社会的危機に対する意味で)
危機の原因が、人間社会の基本に根ざす物だから。
まあ、当面は、巷で言われている、地味な以下の対策しか無いのだろう。
「感染爆発を遅らせる」
「医療システムを保持する」
「社会システムを保持する」
そしてテクノロジの発達で感染症の特効薬ができた、とすると、かなりの
好影響にはなるだろう。
対策としては非常に当たり前の結論になった。
2020年3月14日土曜日
2020年2月29日土曜日
平成ぽよ I love you. 見てきました
今日も公演あるので、ネタバレご注意。
ストーリー・テーマ。宇宙の深淵、真理、知識への愛。
科学の側面から見た人間性とは別の世界。
それとは対照的「?」な、親子の感情、愛情、鬱屈したコンプレックス。
2つを絡ませながら進めていく意欲的な作品。
一般には無縁な科学技術的ギミックをてんこ盛りで入れていたのは、毎度の
山田さんのこだわりだと思う。
VR、巨大中国企業、株価、生体リンク、AI、人為生殖。
プロットとして謎解きゲームをつかって観客を引っ張っていく設定。
役者も4年生による経験者の力で、面倒な技術用語交えて芝居として成立させていた。
また、ホールでないスペースで照明機材も貧弱な中で、舞台転換中心に
演劇的なテクニックを使って切れ目ない70分を構成していた。
ミニマルな音楽による演出も観客の心理を下支えしており好感。
さて、以下一観客としての感想。
自分も製作者として「そんならお前やれるんけ?」という事ははあるのだが、
今は棚上げして、以下コメントする。
1.メインテーマの追求
物語のベースとなる物は、宇宙的な真理への渇望、根源への願望という物だった。(と思う)
それは娘を顧みないニナの野望や行動原理でもあり、ニナを間にしたキララと
ターチの行動原理でもあった。これはラストでどんでん返しを構成するために
不可避な要素であり、また感情的なメインテーマである親子のLoveと
ヲウリの娘としてのコンプレックスのベースとなる物だから、一番表現
するべきテーマだった。しかし芝居の前半で演劇的にうまく表現できておらず、
物語全体をひっぱる牽引力が弱かった。
2.キャラクタ分離
構想から脚本へ落とし込む際、ストーリーとテーマを語る事からキャラクタを
創造して行っていると推定するが、作品中で個々のキャラクタの意思と原理が
実際の行動とずれている感がある部分が要所に見られた。
例えばアルクの日常人的行動性とヲウリの突出した知的能力。
アルクとヲウリが一緒に行動する際に、言動の混在が感じられた。
3.セリフ回し
ストーリー展開時に行動や感情とだぶるセリフ、紋切型のセリフが多く、
役者の「演技」の自由度が削がれている箇所が多かった。
もっと役者の演技の力を信頼してセリフを削るべきだったと思われる。
しかし、これはプロジェクト内で、いかに演出方針と役者の解釈を
すり合わせる時間との勝負でもあるので、そこでのトレードオフは
難しい所ではある。
私のようなエンタメを望む観客としては、もっと具体的な演劇的な舞台寄りの
脚本を作ってもらうと、より楽しめると思う。
山田さん卒業なので、もう見る機会は無いかもしれないのが残念だが。
4.プロット
ラストの143を「観客に説明しない」ために、要所でしかけた暗号解読の前フリ。
おしゃれにラストをまとめるためには必要な方法論ではあるのだが、
膨大なギミックを短時間でまとめるという全体的な要請のためには、
もっと効率的に使いたい。
例えばメインテーマである、科学と宇宙と真理の壮大な世界に対する愛との
ベクトル合わせが、この日常的に見える前フリエピソードとできていれば
1.で説明しているメインテーマを下支えする事ができただろう。
脚本的にはできていたのかもしれないが、あまり演技として伝わって来なかった
気がするのは残念。これは演出面で役者と演出とのすり合わせ不足だったと推測。
最後に
プロジェクトとして、非常に難しい挑戦だったと思う。
脚本上、一般的ではない素材を扱うために、説明とストーリー展開を含めて
70分に収めるという非常に難しい事を目指した作品と思う。
今回題材や大量に投入されたギミックを脚本書き及び、舞台制作の中で
役者や関係者が消化しきれないままに時間切れになってしまったのでは
ないかと推測する。
主役の交代も練習や時間が無い中での大きなロスだったのではないか。
という所で、演劇的な感情、感動という点では残念ながらあまり評価はできない。
しかし、わかってながら挑戦する、というのは学生なればこそ、だし、
仲間同士の絆がある学生のサークルだからこそできる事だったのかもしれない。
4年間の集大成という事で、その時点で困難とわかっていても挑戦し、
またコロナウィルスの対応という逆風の中で、よくぞ完成したものだ。
卒業公演プロジェクトとして評価に値すると思う。
皆さん、お疲れさまでした。
ストーリー・テーマ。宇宙の深淵、真理、知識への愛。
科学の側面から見た人間性とは別の世界。
それとは対照的「?」な、親子の感情、愛情、鬱屈したコンプレックス。
2つを絡ませながら進めていく意欲的な作品。
一般には無縁な科学技術的ギミックをてんこ盛りで入れていたのは、毎度の
山田さんのこだわりだと思う。
VR、巨大中国企業、株価、生体リンク、AI、人為生殖。
プロットとして謎解きゲームをつかって観客を引っ張っていく設定。
役者も4年生による経験者の力で、面倒な技術用語交えて芝居として成立させていた。
また、ホールでないスペースで照明機材も貧弱な中で、舞台転換中心に
演劇的なテクニックを使って切れ目ない70分を構成していた。
ミニマルな音楽による演出も観客の心理を下支えしており好感。
さて、以下一観客としての感想。
自分も製作者として「そんならお前やれるんけ?」という事ははあるのだが、
今は棚上げして、以下コメントする。
1.メインテーマの追求
物語のベースとなる物は、宇宙的な真理への渇望、根源への願望という物だった。(と思う)
それは娘を顧みないニナの野望や行動原理でもあり、ニナを間にしたキララと
ターチの行動原理でもあった。これはラストでどんでん返しを構成するために
不可避な要素であり、また感情的なメインテーマである親子のLoveと
ヲウリの娘としてのコンプレックスのベースとなる物だから、一番表現
するべきテーマだった。しかし芝居の前半で演劇的にうまく表現できておらず、
物語全体をひっぱる牽引力が弱かった。
2.キャラクタ分離
構想から脚本へ落とし込む際、ストーリーとテーマを語る事からキャラクタを
創造して行っていると推定するが、作品中で個々のキャラクタの意思と原理が
実際の行動とずれている感がある部分が要所に見られた。
例えばアルクの日常人的行動性とヲウリの突出した知的能力。
アルクとヲウリが一緒に行動する際に、言動の混在が感じられた。
行動を共にする場合は、キャラクタとして分離・対比させた方が
よりキャラクタが引き立ち、行動原理が明らかになると思われる。
(吉田秋生の夜叉に表されているような天才と市井の人間との対比相克)3.セリフ回し
ストーリー展開時に行動や感情とだぶるセリフ、紋切型のセリフが多く、
役者の「演技」の自由度が削がれている箇所が多かった。
もっと役者の演技の力を信頼してセリフを削るべきだったと思われる。
しかし、これはプロジェクト内で、いかに演出方針と役者の解釈を
すり合わせる時間との勝負でもあるので、そこでのトレードオフは
難しい所ではある。
私のようなエンタメを望む観客としては、もっと具体的な演劇的な舞台寄りの
脚本を作ってもらうと、より楽しめると思う。
山田さん卒業なので、もう見る機会は無いかもしれないのが残念だが。
4.プロット
ラストの143を「観客に説明しない」ために、要所でしかけた暗号解読の前フリ。
おしゃれにラストをまとめるためには必要な方法論ではあるのだが、
膨大なギミックを短時間でまとめるという全体的な要請のためには、
もっと効率的に使いたい。
例えばメインテーマである、科学と宇宙と真理の壮大な世界に対する愛との
ベクトル合わせが、この日常的に見える前フリエピソードとできていれば
1.で説明しているメインテーマを下支えする事ができただろう。
脚本的にはできていたのかもしれないが、あまり演技として伝わって来なかった
気がするのは残念。これは演出面で役者と演出とのすり合わせ不足だったと推測。
最後に
プロジェクトとして、非常に難しい挑戦だったと思う。
脚本上、一般的ではない素材を扱うために、説明とストーリー展開を含めて
70分に収めるという非常に難しい事を目指した作品と思う。
今回題材や大量に投入されたギミックを脚本書き及び、舞台制作の中で
役者や関係者が消化しきれないままに時間切れになってしまったのでは
ないかと推測する。
主役の交代も練習や時間が無い中での大きなロスだったのではないか。
という所で、演劇的な感情、感動という点では残念ながらあまり評価はできない。
しかし、わかってながら挑戦する、というのは学生なればこそ、だし、
仲間同士の絆がある学生のサークルだからこそできる事だったのかもしれない。
4年間の集大成という事で、その時点で困難とわかっていても挑戦し、
またコロナウィルスの対応という逆風の中で、よくぞ完成したものだ。
卒業公演プロジェクトとして評価に値すると思う。
皆さん、お疲れさまでした。
2019年12月30日月曜日
商品としての「日本」
中国でも買える商品を中国人が日本で買う、という報道を見た。
理由は「同じ商品でも品質が信用できるから」という事らしい。
実際、日頃自分で物を買うにしてもそういう感覚はある。
あと、例えば、日本の交通システムでの定時刻運行の正確さ。
これも時間精度としての品質が高いと言い換える事ができる。
さて「日本製品の品質は高い(高かった)」が正しい前提で考える。
さて、品質保証には付加価値がある。(保証書の有効期限を伸ばすという有料オプションがある事から自明である。)
グローバル化が成される以前の日本の中でその品質保証をするのは、日本人としてのあたりまえだった。 同じ金額でも、品質は当たり前に良く、品質が悪い=クレームの対象だった。 正しい事が当たり前の村社会文化がこの日本式の高度な品質保証システムを作り上げてきた。 しかし、ここで見落とされているのは、日本式の製造・勤労・社会システムにかかるコストである。実際は品質保証には手間と時間がかかる。1000個中5個不良がある事を認める社会(私の実感としての海外品質保証レベル)と1個も認めない社会(日本)ではかかるコストが大きく変わる。
今まではそのコストは日本社会の中でお互いが持ちつ持たれつという事で吸収されていたので、表には見えなかった。品質が良いものを買って(部品)、品質が良い世界の中で(時間通りに動く電車)、品質が良い人材が(高い識字率、進学率)働くから、安いコストで良いものを作る事が出来ていたわけだ。
しかし、グローバル化がなされて日本が階級社会になり、社会全体に余裕がなくなってきた。部品自体も安いが品質が保証されない物が海外から入ってくる。例えば食料も含めて。すると、その品質保証をするためには、今まで容易にできていた品質保証ができなくなる。 不良率0.01%の物を100個組み合わせても不良率は1%だが、不良率1%の物を組み合わせたら100%不良となる。(まあこれは極端だが)
そこで、同じ金額で物を売る、もしくは安い海外製品と競合して物を売るためには、社会全体で労働者が身を粉にして働く必要が出てくる。
これがブラック企業を産む。そして労働者を尊重するホワイト企業は企業間競争に敗れて倒産する。
これが現在の日本で起きている事、なのでは無いかと言う身も蓋も無い分析のお話。
理由は「同じ商品でも品質が信用できるから」という事らしい。
実際、日頃自分で物を買うにしてもそういう感覚はある。
あと、例えば、日本の交通システムでの定時刻運行の正確さ。
これも時間精度としての品質が高いと言い換える事ができる。
さて「日本製品の品質は高い(高かった)」が正しい前提で考える。
さて、品質保証には付加価値がある。(保証書の有効期限を伸ばすという有料オプションがある事から自明である。)
グローバル化が成される以前の日本の中でその品質保証をするのは、日本人としてのあたりまえだった。 同じ金額でも、品質は当たり前に良く、品質が悪い=クレームの対象だった。 正しい事が当たり前の村社会文化がこの日本式の高度な品質保証システムを作り上げてきた。 しかし、ここで見落とされているのは、日本式の製造・勤労・社会システムにかかるコストである。実際は品質保証には手間と時間がかかる。1000個中5個不良がある事を認める社会(私の実感としての海外品質保証レベル)と1個も認めない社会(日本)ではかかるコストが大きく変わる。
今まではそのコストは日本社会の中でお互いが持ちつ持たれつという事で吸収されていたので、表には見えなかった。品質が良いものを買って(部品)、品質が良い世界の中で(時間通りに動く電車)、品質が良い人材が(高い識字率、進学率)働くから、安いコストで良いものを作る事が出来ていたわけだ。
しかし、グローバル化がなされて日本が階級社会になり、社会全体に余裕がなくなってきた。部品自体も安いが品質が保証されない物が海外から入ってくる。例えば食料も含めて。すると、その品質保証をするためには、今まで容易にできていた品質保証ができなくなる。 不良率0.01%の物を100個組み合わせても不良率は1%だが、不良率1%の物を組み合わせたら100%不良となる。(まあこれは極端だが)
そこで、同じ金額で物を売る、もしくは安い海外製品と競合して物を売るためには、社会全体で労働者が身を粉にして働く必要が出てくる。
これがブラック企業を産む。そして労働者を尊重するホワイト企業は企業間競争に敗れて倒産する。
これが現在の日本で起きている事、なのでは無いかと言う身も蓋も無い分析のお話。
2019年12月1日日曜日
萩尾望都さん/「ポーの一族・春の夢」読みました。
40年ぶりという事で出版されたポーの一族の新作。
連載1回目読んで、以降いつ読むかどうしようかと迷っていたが、
意を決して単行本入手。
全然まとまっていないが、まずは書評。
ティーンの時に読んで、俺の人生の感情部分をほぼ決定づけた既刊シリーズ。
今回の作品は、それとは「違う」物だ。
もちろん違う事は悪いことでは無いが、とにかく違う。
子供が成長して大人になった時、個性の多くは引き継がれるが、
やはり時の流れは人間を大きく変える。
「春の夢」もそうだ。
既刊シリーズではポー=吸血鬼一族だったが、今回は様々な吸血鬼の
種族の中の一種族という位置づけに変化した。いや、変化した訳では
無いのかもしれないが、少なくとも外部の種族は描かれていなかった。
そしてキング・ポー、並びにポーの一族の生態がリアルになった。
人格と生態と特性と。既刊の持つファンタジー色から明確な
細部が描かれるSF的な展開がなされた。
そして、既刊では一枚岩に見えた一族だが、今回は別々の意思と行動原理を
持つ個人となって対立や協調を行っている。
そして人間社会の時代背景。
既刊の中では、個人と生存など、やはり心情的、神話的、な色が強かった。
「小鳥の巣」でも戦争や社会性もあったが、やはりファンタジー色が
濃かったのでは無いかと思う。
時代が下って「エディス」でもリアルな情景はあったが、やはりメインは
心情的な物で、時代が下ったからリアルになっただけ、のように見える。
しかし、新刊では戦争と時代に投げ込まれた人間という小さな存在とか
小さな社会での悪、親族間での葛藤と偽善とか、よりリアルに描かれて
いるように見える。
ただ一つひっかかった点。
エドガーとアランの関係だが、新キャラクタのファルカの存在で
多少は揺らぐのだが、結局、既刊から維持確定されて変化が無い。
なぜ今になってポーの一族か?なぜ違うシリーズでなかったのか、
という疑問に対して、エドガーとアランを描きたかった、そうでなければ
描けなかった、という萩尾望都の回答なのかもしれない。
しかし、少なくとも今作においては、エドガーにとってのアランの存在が
薄い気がした。上記に述べたような既刊と今作の対比を考えると
今作で描きたかったテーマや物に対して、アランが必要不可欠な
存在ではなかったように見える。既刊でも、そもそも不死の存在である
エドガーは元々明確な存在理由を見失っているように見えて、その中で
唯一、アランがその存在意義を担っていた。
しかし、これについては後述するが、俺の理解力不足という可能性も
充分ある。正直この作品を良く理解していないので。それは認める。
萩尾望都は40年を経て良く再開する目的意識を持ったと思う。
なぜ、という理由は本人にはあるとは思うし、それについては
書かない。
が、製作時70歳近くなってなおこのような緻密な作品を描ける
というのは、やはりかけがえが無い作家なのだと思う。
天才という簡単な評価だけでは論じる事はできないだろうから。
さて、作品評の後で。
この作品を読んで、もう一つ衝撃的だったのは、俺自体の精神の退化だ。
作品の詳細を理解できない。複雑な社会性、キャラクタの多様性を理解する
能力がなくなっている。チャーリーゴードンのように。
過去に読んだ作品は過去に素晴らしさを理解しているから素晴らしさを
感じる能力が継続できている。
しかし、新作だと、頭脳では素晴らしい作品だという事を理解できている。
ぼんやりとは。しかし俺自体の理解する能力が半減しているから
その素晴らしさを十全に受け入れる力がなくなっている。
人間はいつか死ぬ。
生命活動のように急激に訪れる死もあれば、
老化のように緩やかに訪れる死もある。それは分かっているのだが
やはり現実という物は「そういう物だ」。スローターハウス5のように。
それを気付かされた作品だった。
連載1回目読んで、以降いつ読むかどうしようかと迷っていたが、
意を決して単行本入手。
全然まとまっていないが、まずは書評。
ティーンの時に読んで、俺の人生の感情部分をほぼ決定づけた既刊シリーズ。
今回の作品は、それとは「違う」物だ。
もちろん違う事は悪いことでは無いが、とにかく違う。
子供が成長して大人になった時、個性の多くは引き継がれるが、
やはり時の流れは人間を大きく変える。
「春の夢」もそうだ。
既刊シリーズではポー=吸血鬼一族だったが、今回は様々な吸血鬼の
種族の中の一種族という位置づけに変化した。いや、変化した訳では
無いのかもしれないが、少なくとも外部の種族は描かれていなかった。
そしてキング・ポー、並びにポーの一族の生態がリアルになった。
人格と生態と特性と。既刊の持つファンタジー色から明確な
細部が描かれるSF的な展開がなされた。
そして、既刊では一枚岩に見えた一族だが、今回は別々の意思と行動原理を
持つ個人となって対立や協調を行っている。
そして人間社会の時代背景。
既刊の中では、個人と生存など、やはり心情的、神話的、な色が強かった。
「小鳥の巣」でも戦争や社会性もあったが、やはりファンタジー色が
濃かったのでは無いかと思う。
時代が下って「エディス」でもリアルな情景はあったが、やはりメインは
心情的な物で、時代が下ったからリアルになっただけ、のように見える。
しかし、新刊では戦争と時代に投げ込まれた人間という小さな存在とか
小さな社会での悪、親族間での葛藤と偽善とか、よりリアルに描かれて
いるように見える。
ただ一つひっかかった点。
エドガーとアランの関係だが、新キャラクタのファルカの存在で
多少は揺らぐのだが、結局、既刊から維持確定されて変化が無い。
なぜ今になってポーの一族か?なぜ違うシリーズでなかったのか、
という疑問に対して、エドガーとアランを描きたかった、そうでなければ
描けなかった、という萩尾望都の回答なのかもしれない。
しかし、少なくとも今作においては、エドガーにとってのアランの存在が
薄い気がした。上記に述べたような既刊と今作の対比を考えると
今作で描きたかったテーマや物に対して、アランが必要不可欠な
存在ではなかったように見える。既刊でも、そもそも不死の存在である
エドガーは元々明確な存在理由を見失っているように見えて、その中で
唯一、アランがその存在意義を担っていた。
しかし、これについては後述するが、俺の理解力不足という可能性も
充分ある。正直この作品を良く理解していないので。それは認める。
萩尾望都は40年を経て良く再開する目的意識を持ったと思う。
なぜ、という理由は本人にはあるとは思うし、それについては
書かない。
が、製作時70歳近くなってなおこのような緻密な作品を描ける
というのは、やはりかけがえが無い作家なのだと思う。
天才という簡単な評価だけでは論じる事はできないだろうから。
さて、作品評の後で。
この作品を読んで、もう一つ衝撃的だったのは、俺自体の精神の退化だ。
作品の詳細を理解できない。複雑な社会性、キャラクタの多様性を理解する
能力がなくなっている。チャーリーゴードンのように。
過去に読んだ作品は過去に素晴らしさを理解しているから素晴らしさを
感じる能力が継続できている。
しかし、新作だと、頭脳では素晴らしい作品だという事を理解できている。
ぼんやりとは。しかし俺自体の理解する能力が半減しているから
その素晴らしさを十全に受け入れる力がなくなっている。
人間はいつか死ぬ。
生命活動のように急激に訪れる死もあれば、
老化のように緩やかに訪れる死もある。それは分かっているのだが
やはり現実という物は「そういう物だ」。スローターハウス5のように。
それを気付かされた作品だった。
2019年4月28日日曜日
映画「テス」。愚かな、愚かな人間。
見終わって。
実話かと思うほどの重厚さ。
映画としての絵は美しいのだが、そこにカタルシスは無い。
ひたすら世界と生活の重みが伝わってくる。
登場人物、特に主人公テスと夫エンジェルの愚かさが心にのしかかる。
なんでこんな事してしまうんだろう、と思う。
非常な貧しさ、過酷な仕事、生活。
幸せになりたいと思い、だが日々の仕事に追われる。
そして、たまにある喜び。
そして長いつらい悲しみ。
幸せになれる、なれた筈なのに、自分の感情を乗り越えられずに
結局幸せを捨ててしまう。
他人から見ればでは愚かな行動なのだが、本人にしてみれば
それが正しいと思う選択であり、また、そういう生き方しかできない。
結局、俺もそうなんだ。
間違わないように、注意深く行動しても、取り返しのつかない
愚かな失敗をしてしまう。
誠実に生きているつもりでもその下では狡さの皮が浮きでてきてしまう。
一生懸命生きようとしていても、前に進むことができない。
そんな気持ちを呼び起こす映画だった。
実話かと思うほどの重厚さ。
映画としての絵は美しいのだが、そこにカタルシスは無い。
ひたすら世界と生活の重みが伝わってくる。
登場人物、特に主人公テスと夫エンジェルの愚かさが心にのしかかる。
なんでこんな事してしまうんだろう、と思う。
非常な貧しさ、過酷な仕事、生活。
幸せになりたいと思い、だが日々の仕事に追われる。
そして、たまにある喜び。
そして長いつらい悲しみ。
幸せになれる、なれた筈なのに、自分の感情を乗り越えられずに
結局幸せを捨ててしまう。
他人から見ればでは愚かな行動なのだが、本人にしてみれば
それが正しいと思う選択であり、また、そういう生き方しかできない。
結局、俺もそうなんだ。
間違わないように、注意深く行動しても、取り返しのつかない
愚かな失敗をしてしまう。
誠実に生きているつもりでもその下では狡さの皮が浮きでてきてしまう。
一生懸命生きようとしていても、前に進むことができない。
そんな気持ちを呼び起こす映画だった。
2019年4月27日土曜日
映画「チェンジリング」を見て。悪とは。
またもやクリント・イーストウッド監督作品。
本当に彼の作品ははずれが無い。
ハドソン川の奇跡、でもあったように実話ベースの話。
その時々の社会の現実を切り取っている。
細かいストーリーや感想はここには書かないが、とにかく良い。
その他に今回感じたこと。
作品には「悪人」が出てくる。「悪」とか「不正」とかが出てくる。
不正、失敗を隠蔽し、主人公、また他の人々を迫害する警部、精神病院、医者。
自分の保身のためなら、どんな冷酷な事もできる。
どんな不正も隠すことができる。
そして、子供達を惨殺する殺人鬼。
感情的に感覚的には「これはおかしいだろう」と思う。
だが、物語の最後、それは一方的な断罪に見えてくる。
この物語では明らかにはしていないが、
つまり、この断罪される矛先にある「悪」「不正」は
俺の中にあり、また社会にある皆の中にもあるのだ。
イーストウッドはそう言っているように見える。
俺は保身をしないか?
社会の皆は保身をしていないか?
皆、自分のために人を犠牲にした事はないか?
善良である事、それは善良である事と自分を守ることが
相反しない時だけだ。自分を守ることが善良さと対立した場合、
善良さを貫くことはできない。多くの場合。
そして、悪と善も結局くるくると変転する。
その時に善だったであろう者も、次の時は悪になる。
ある方向から見たら悪でも、その中では善になる。
全てが相対的、という訳ではなく、絶対的な物も確かに存在するとは
思うのだが、どれを絶対だと確実にいえる物が今の俺には無い。
しかし、「何か」があるとは思える。
物語の中で「女は」「弱い」というキーワードが出てくる。
弱さ、強さ。
弱者は正義を貫くことができない。結局彼女も周りの強力な助けがあって
なんとか不正をあばく事ができた。
一方、不正を隠蔽していた警察(警部、本部長、市長)も強かった。
だが、正義を貫くことができなかった。
無論、今回のストーリーで言う、悪=怠慢=隠蔽は、彼らの全体的な
功績に比べればもしかしたら小さかったのかもしれぬ。
秩序を守った80点の正義の功績の他の20点の失敗かもしれぬ。
それは俺にはわからないし、現実社会では20点の功績で80点の失敗
のような事例は山ほどあるだろう。
わからない。
わからないが、何かがあるように見える。
真実は霧の中で、いくら探しても見つからないとは思うが
俺は俺の道で真実を追究したいものだ。
***************
おまけ
1)見終わってから主演がアンジェリーナ・ジョリーと知ってびっくり。
目が大きい人だなあと思ってたが、アクション女優のイメージが
強かったが静かな演技もいい。
キャスティングは誰かはわからないがプロデューサか?
イーストウッドか?いずれにせよ、アカデミー主演女優賞を取っただけの
事はある。
2)音楽にイーストウッドの名前があった。いい音楽だった。
派手ではないが、いい。
3)最近の作品と思ってみたら10年前。 俺にしてみると10年前は
最近だなあ。
本当に彼の作品ははずれが無い。
ハドソン川の奇跡、でもあったように実話ベースの話。
その時々の社会の現実を切り取っている。
細かいストーリーや感想はここには書かないが、とにかく良い。
その他に今回感じたこと。
作品には「悪人」が出てくる。「悪」とか「不正」とかが出てくる。
不正、失敗を隠蔽し、主人公、また他の人々を迫害する警部、精神病院、医者。
自分の保身のためなら、どんな冷酷な事もできる。
どんな不正も隠すことができる。
そして、子供達を惨殺する殺人鬼。
感情的に感覚的には「これはおかしいだろう」と思う。
だが、物語の最後、それは一方的な断罪に見えてくる。
この物語では明らかにはしていないが、
つまり、この断罪される矛先にある「悪」「不正」は
俺の中にあり、また社会にある皆の中にもあるのだ。
イーストウッドはそう言っているように見える。
俺は保身をしないか?
社会の皆は保身をしていないか?
皆、自分のために人を犠牲にした事はないか?
善良である事、それは善良である事と自分を守ることが
相反しない時だけだ。自分を守ることが善良さと対立した場合、
善良さを貫くことはできない。多くの場合。
そして、悪と善も結局くるくると変転する。
その時に善だったであろう者も、次の時は悪になる。
ある方向から見たら悪でも、その中では善になる。
全てが相対的、という訳ではなく、絶対的な物も確かに存在するとは
思うのだが、どれを絶対だと確実にいえる物が今の俺には無い。
しかし、「何か」があるとは思える。
物語の中で「女は」「弱い」というキーワードが出てくる。
弱さ、強さ。
弱者は正義を貫くことができない。結局彼女も周りの強力な助けがあって
なんとか不正をあばく事ができた。
一方、不正を隠蔽していた警察(警部、本部長、市長)も強かった。
だが、正義を貫くことができなかった。
無論、今回のストーリーで言う、悪=怠慢=隠蔽は、彼らの全体的な
功績に比べればもしかしたら小さかったのかもしれぬ。
秩序を守った80点の正義の功績の他の20点の失敗かもしれぬ。
それは俺にはわからないし、現実社会では20点の功績で80点の失敗
のような事例は山ほどあるだろう。
わからない。
わからないが、何かがあるように見える。
真実は霧の中で、いくら探しても見つからないとは思うが
俺は俺の道で真実を追究したいものだ。
***************
おまけ
1)見終わってから主演がアンジェリーナ・ジョリーと知ってびっくり。
目が大きい人だなあと思ってたが、アクション女優のイメージが
強かったが静かな演技もいい。
キャスティングは誰かはわからないがプロデューサか?
イーストウッドか?いずれにせよ、アカデミー主演女優賞を取っただけの
事はある。
2)音楽にイーストウッドの名前があった。いい音楽だった。
派手ではないが、いい。
3)最近の作品と思ってみたら10年前。 俺にしてみると10年前は
最近だなあ。
2019年4月14日日曜日
失敗について2
他人の間違いを見聞きする。
でも本人はその間違いが全然認識できない。
明らかな間違いで、他人からも指摘されるのだが、
本人はその間違いを認識できない。
て事はだ。
俺も同じ事をやっているはずだ。
多分やってる。
だから、自分の「正しさ」に対して常に疑問をもたなくちゃならない。
塩野七生さんが「加齢ではなく成功体験」が保守化の要因になっていると書いている。
年を取ると原因と結果のルールベースが経験から
作り出されていく。
それは非常に便利なツールなのだが、半面キケンな所もある。
当然、結果というのは現象を正しく捉えなければ当然間違えてしまう。
って事だから。
だから、現状認識の時に、ああ、これ、前にやった事だね、と思って
手抜きすると、判断を間違えさせる要因になるはず。
でも本人はその間違いが全然認識できない。
明らかな間違いで、他人からも指摘されるのだが、
本人はその間違いを認識できない。
て事はだ。
俺も同じ事をやっているはずだ。
多分やってる。
だから、自分の「正しさ」に対して常に疑問をもたなくちゃならない。
塩野七生さんが「加齢ではなく成功体験」が保守化の要因になっていると書いている。
年を取ると原因と結果のルールベースが経験から
作り出されていく。
それは非常に便利なツールなのだが、半面キケンな所もある。
当然、結果というのは現象を正しく捉えなければ当然間違えてしまう。
って事だから。
だから、現状認識の時に、ああ、これ、前にやった事だね、と思って
手抜きすると、判断を間違えさせる要因になるはず。
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