生物が成長の過程で、形ができてくる。
体内の物質の濃度勾配とかが原因で。
人間関係もそういう事は無いか。
人間関係もコミニュケーションの伝達速度は有限である。
また伝達の深さも有限である。
だから距離が遠いと立場が変わり敵になったりもする。
2015年8月13日木曜日
2015年7月26日日曜日
2chを見て
悪意だけで人は死んでしまう。
悪意のある言葉を投げつけられただけで人は死んでしまう。
言葉はただの信号なのに、なぜだろう。
でも、本当の話。
特に親からの悪意は、もしくは、親からの無関心は酷い苦しみを子供に与える。
人はコミニュケーションにより大きく影響されるって事か。
虎は群居動物では無い。
他の虎から吼えられても虎は死なない。と思う。
親虎から育児放棄されたら子虎は死ぬ。
それは具体的に放棄されたら、だが。
悪意のある言葉を投げつけられただけで人は死んでしまう。
言葉はただの信号なのに、なぜだろう。
でも、本当の話。
特に親からの悪意は、もしくは、親からの無関心は酷い苦しみを子供に与える。
人はコミニュケーションにより大きく影響されるって事か。
虎は群居動物では無い。
他の虎から吼えられても虎は死なない。と思う。
親虎から育児放棄されたら子虎は死ぬ。
それは具体的に放棄されたら、だが。
2015年7月14日火曜日
脚本の書き方(デスノートを見て)
脚本が苦手である。
なかなかうまく書けなかった。
一つ判っていた事は、脚本の内的必然性があること。
たとえば、A、B、Cという因果関係で話が進みラストDになる、という事。
また、脚本=セリフという図式で考えると、セリフを大量に書く必要がある。
では、セリフというのはなぜ生まれるのか?
①それは対立から生まれるものだと思う。
例えば喧嘩している。
②もしくは情報を交換するために生まれる。
という事は、立場が違う二人以上の人間が必要となる。
それはいい。
しかし、それ以上が進まなかった。
つまり、因果の必然性を、自分もしくは観客が既に知っているとすると、
別に会話する必要性が無い。だからセリフを書こうという気にならない。
立場としたら、脚本家としては物語を外からマクロ的な見方で見ていたわけだ。
しかし、最近思うのは、観客はストーリーと供に、情報を小出しにされるわけだ。
というか、小出しにして良い、訳だ。
100の情報のうち、30提示されたら、残りの70を知りたくなる。
それが、人間の社会的な本能なんだろう。
例えば推理ドラマでは、犯行があって犯人が後からわかる。
もしくは犯人がわかって、犯行動機があとからわかる、とか。
ディズニーランドに行き、アトラクションで色々探検して、最後に謎がすべて解ける、
という感じか。
またはこういう事か。
なぜ対立するか? お互いがお互いを充分に知らないから対立する。
そして、お互いを知って和解する。
つまり、不完全な情報による対立。
もしくは、最初の状態で、登場人物がベストと思う行動をする。
しかし、時間が経つと状態が変わる。 だから、最初に取った行動は
今のベストではない。
例えば雪山に行く。 晴れた、と思って下山しようとするとまた吹雪で遭難、とか。
それはベストだと思わずにただ遭難、というより、劇的な感じがする。
ベストと思い行動するのは幸せ、望み、希望。 でもそれにより結果は悲劇。
そういう事は現実では良くあるが、それは見ていてとても悲しい。
つまり、時間により状況が変わる事による対立。
時間が戻らない、という事による、今の自分と将来の自分との対立。
上記3要素を上手く組み合わせると、しっかり脚本がかけそう。
まとめると
①情報を観客(もしくは登場人物に)小出し。情報不足による対立。
②時間により状況が変わる(過去と未来の対立)
なかなかうまく書けなかった。
一つ判っていた事は、脚本の内的必然性があること。
たとえば、A、B、Cという因果関係で話が進みラストDになる、という事。
また、脚本=セリフという図式で考えると、セリフを大量に書く必要がある。
では、セリフというのはなぜ生まれるのか?
①それは対立から生まれるものだと思う。
例えば喧嘩している。
②もしくは情報を交換するために生まれる。
例えば知らない二人がお互いを知ろうとして会話している。
という事は、立場が違う二人以上の人間が必要となる。
それはいい。
しかし、それ以上が進まなかった。
つまり、因果の必然性を、自分もしくは観客が既に知っているとすると、
別に会話する必要性が無い。だからセリフを書こうという気にならない。
立場としたら、脚本家としては物語を外からマクロ的な見方で見ていたわけだ。
しかし、最近思うのは、観客はストーリーと供に、情報を小出しにされるわけだ。
というか、小出しにして良い、訳だ。
100の情報のうち、30提示されたら、残りの70を知りたくなる。
それが、人間の社会的な本能なんだろう。
例えば推理ドラマでは、犯行があって犯人が後からわかる。
もしくは犯人がわかって、犯行動機があとからわかる、とか。
ディズニーランドに行き、アトラクションで色々探検して、最後に謎がすべて解ける、
という感じか。
またはこういう事か。
なぜ対立するか? お互いがお互いを充分に知らないから対立する。
そして、お互いを知って和解する。
つまり、不完全な情報による対立。
もしくは、最初の状態で、登場人物がベストと思う行動をする。
しかし、時間が経つと状態が変わる。 だから、最初に取った行動は
今のベストではない。
例えば雪山に行く。 晴れた、と思って下山しようとするとまた吹雪で遭難、とか。
それはベストだと思わずにただ遭難、というより、劇的な感じがする。
ベストと思い行動するのは幸せ、望み、希望。 でもそれにより結果は悲劇。
そういう事は現実では良くあるが、それは見ていてとても悲しい。
つまり、時間により状況が変わる事による対立。
時間が戻らない、という事による、今の自分と将来の自分との対立。
上記3要素を上手く組み合わせると、しっかり脚本がかけそう。
まとめると
①情報を観客(もしくは登場人物に)小出し。情報不足による対立。
②時間により状況が変わる(過去と未来の対立)
2015年7月1日水曜日
表現と現実
表現は表現だけ、ただの形で本質とは関係無い、という事はない気がしてきた。
(ケースバイケースで、度合いもあるけど)
例えば言語学で、言語表現が民族の生活から影響を受けていたりする。
逆に言語から生活が見えたり。
私の仕事で言うと、例えばハードウエア設計をする時に、図面の書き方で設計の効率が
全く変わってくるし、製造の効率も変わってくる。
ソフトウエアでは言語や環境が生成効率に深くかかわるのは周知の事。
表現は本質とは関係が無いはず、なんだが、結局はやはり深くかかわる。
つまり、表現したり受け取ったりするのは人間で、その人間は有限な時間と有限な能力で
その表現を見たり理解したり作ったりするわけだ。
だから、その授受の効率で結果が変わってきたりする。
生物と無生物の間、という本で書かれているのは、生命はプロセスである、という事。
これはこの表現のしかたによる効率に深く関連しないか?
例えば脚本を書いたとする。
良い脚本が良い演出を生み、良い演出が良い演技を生む、という仮説が成り立たないか。
(何が良いかは別として)
特に演劇はプロセスが大事な気がする。というかプロセスそのもの。
(ケースバイケースで、度合いもあるけど)
例えば言語学で、言語表現が民族の生活から影響を受けていたりする。
逆に言語から生活が見えたり。
私の仕事で言うと、例えばハードウエア設計をする時に、図面の書き方で設計の効率が
全く変わってくるし、製造の効率も変わってくる。
ソフトウエアでは言語や環境が生成効率に深くかかわるのは周知の事。
表現は本質とは関係が無いはず、なんだが、結局はやはり深くかかわる。
つまり、表現したり受け取ったりするのは人間で、その人間は有限な時間と有限な能力で
その表現を見たり理解したり作ったりするわけだ。
だから、その授受の効率で結果が変わってきたりする。
生物と無生物の間、という本で書かれているのは、生命はプロセスである、という事。
これはこの表現のしかたによる効率に深く関連しないか?
例えば脚本を書いたとする。
良い脚本が良い演出を生み、良い演出が良い演技を生む、という仮説が成り立たないか。
(何が良いかは別として)
特に演劇はプロセスが大事な気がする。というかプロセスそのもの。
2015年6月21日日曜日
演技するって
結局内容はどうでもいい気がしてきた。
人は所詮声高にセリフを喋りたいだけなんだろう。
そして、そのテーゼが人にうまく伝わると、というか、人にうまく伝わると、自分が納得できるような
セリフを言えればそれでいいんだろう。
人は愛されたい、認識されたい、受容されたい。
無価値で意味の無い存在である事が耐えられない。
だから声高にセリフを喋る。
例えばスポーツでもいい。
贔屓のチーム、例えば日本代表がいたら、それについて、色々言う。
そして勝ったら自分の事のように偉ぶる。
自己愛。
しかし、その愛というのも結構マユツバで、本当に自己愛なんていう物はあるのか、
という疑問もある。
実際は生ぬるいものではなく、暖かいものでもなく、もっと機械的な側面もあるのかもしれん。
人間が世の中を認識する、あるいは人間以外の動物でも同じかもしれないが、
そのためのよりどころ、座標、ものさし、となるのがワタシなのだろう。
われ思うゆえに我あり。
われ思うゆえに世界あり。
われがなくなっても世界は存在するが、世界を切り取る意識はわれという自意識がないと
世界を認識できない。
全て愛他精神、自己を全く愛する姿勢が無かったら、多分世界を認識できない。
極端な話、生きる、食う、ためには競争しなければならず、他者を自分より重く
置いたら即座に人は死ぬ。
だから人が生きていく座標軸、ものさし、が自己愛なのかもしれん。
当然、座標は一軸でなく、他者という二軸目もあるかもしれないが、
一軸目が無い二軸は無い。
人は所詮声高にセリフを喋りたいだけなんだろう。
そして、そのテーゼが人にうまく伝わると、というか、人にうまく伝わると、自分が納得できるような
セリフを言えればそれでいいんだろう。
人は愛されたい、認識されたい、受容されたい。
無価値で意味の無い存在である事が耐えられない。
だから声高にセリフを喋る。
例えばスポーツでもいい。
贔屓のチーム、例えば日本代表がいたら、それについて、色々言う。
そして勝ったら自分の事のように偉ぶる。
自己愛。
しかし、その愛というのも結構マユツバで、本当に自己愛なんていう物はあるのか、
という疑問もある。
実際は生ぬるいものではなく、暖かいものでもなく、もっと機械的な側面もあるのかもしれん。
人間が世の中を認識する、あるいは人間以外の動物でも同じかもしれないが、
そのためのよりどころ、座標、ものさし、となるのがワタシなのだろう。
われ思うゆえに我あり。
われ思うゆえに世界あり。
われがなくなっても世界は存在するが、世界を切り取る意識はわれという自意識がないと
世界を認識できない。
全て愛他精神、自己を全く愛する姿勢が無かったら、多分世界を認識できない。
極端な話、生きる、食う、ためには競争しなければならず、他者を自分より重く
置いたら即座に人は死ぬ。
だから人が生きていく座標軸、ものさし、が自己愛なのかもしれん。
当然、座標は一軸でなく、他者という二軸目もあるかもしれないが、
一軸目が無い二軸は無い。
2015年6月17日水曜日
重要感
営業の本より。
誰も彼も、みな重要感に飢えている、というテーゼ。
例えばツィッターで、何かキーワードを入れてつぶやく。するとそれに反応して
フォローしてくれたり、リプライ返してくれたりする。
重要感とはなにか?
世界にかかわっている、尊重されている、尊ばれる、関心を持たれる。
だから、自分が関心を持っている事を誰かがつぶやくと、
「呼んだ?」
って言う事になる。
人は自分が無価値であるという自己認識に耐えられない。一般に。
だから関心をもたれたい。
愛の反対語は無関心だと言う。
関心を持つ事は、相手を尊重する事、認識すること。
誰も彼も、みな重要感に飢えている、というテーゼ。
例えばツィッターで、何かキーワードを入れてつぶやく。するとそれに反応して
フォローしてくれたり、リプライ返してくれたりする。
重要感とはなにか?
世界にかかわっている、尊重されている、尊ばれる、関心を持たれる。
だから、自分が関心を持っている事を誰かがつぶやくと、
「呼んだ?」
って言う事になる。
人は自分が無価値であるという自己認識に耐えられない。一般に。
だから関心をもたれたい。
愛の反対語は無関心だと言う。
関心を持つ事は、相手を尊重する事、認識すること。
コミニュケーション
ツィート見て。
妹んちにあった少女漫画色々読んでいて思ったんだけど、登場人物は全員もっと「報告」「連絡」「相談」を徹底すればそんな様々なすれ違いは生じないし、誤解も生まれないし、感情的になって思わずひっぱたいてしまったりすることもなくなると思う。あと少女漫画もなくなると思う。
その通りだと思う。
仕事していて思うのは、意思疎通の難しさ。
言葉は共通の土台が無いと通じない。
話せばわかる、という言葉は、話せばお互いの違いがわかる、程度。
話しても合意できるとはかぎらない。
その上、意志がなかなか伝わらない。真意が伝わらない。
会話していても、長くながく、じっくりと喋らないと伝わらない。
しかし、人間の時間は有限。だからわかりあう前に、会話を切り上げてしまう。
わかったと思いたいんだと思う。わからない事は面倒だから。
わからない、という事が不安だから。だからわかった気になるように
したい、という本能が働くんだと思う。 わかるエネルギーを最小にしたい
というものぐさな志向。
認知の枠組みも、第一印象バイアスがかかる。
たとえば「好きな人」「嫌いな人」という枠組みがあれば、その上に乗った
相手の言葉の認識も適当にすませる事ができる。
そのものぐさ志向がわからない、を増加させているのだろう。
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