2016年11月20日日曜日

「逃げ恥」がリアルな訳を考えてみました。

50代男の分析なので、性別・年代違う方はどう思われるかわかりませんが。

男性7割・女性6割は「現在交際中の異性無し」
http://news.livedoor.com/article/detail/12306876/
だそうです。
良い悪いは別として今の若い方に関して実感はありますね。
で、理由を考えてみると・・・

恋愛・交際にはマニュアル、きまりが無いせいではないでしょうか。

今の若い方はやはり枠組みが無いとなかなか行動しにくい。
枠組みの中で行動するのは上手だが、枠組みを作る事自体については
あまり想像力が働いていない気がします。

その上で、対人関係の距離が遠くなっていますから、なおさら
その距離を埋める事ができない。

子供同士が遊んでいる時に、ちょっと喧嘩になる。
すると親が出ていって、「**ちゃんと仲良くしようね」
そういう事になる。それをしないと親同士が喧嘩になってしまう。
その延長で大人になると、自分たちでルールを作るのが苦手になる。

例えば気に入った相手にアプローチする。知人でも知人でなくても。
「知人」→「恋人」という人間関係のルール変更をする訳ですが
元々存在しなかったルールを作る訳ですから勇気がいるわけです。 
そしてアプローチをするリスクを取りたく無い。
嫌われたら損ですから。
だから付き合い自体が始まりにくい。

またもし始まったとしても。
人間関係ですから付き合いが始まっても常に順風満帆という訳ではない。
喧嘩もする。あたりまえです。
その中で片方が離れようとすると、昔は追いかけた訳です。蝶々のような
恋の駆け引きですね。
ところが今は追いかける事自体がかっこ悪い、悪、ストーカー
という事になってしまう。
去るものは追わない。だから離れる方向のベクトルだけが強化される。

そうしてどんどん男女関係は離れていく。
でも本能として近寄りたいという欲求は存在する訳です。
その中でつながろうという欲求をSNSがある程度は
満たしているわけですが、それよりもっと深く繋がりたい、
という思いを満たす事はできない訳ですね。

逃げ恥が上手に行っているのは(フィクションですが)
津崎が契約書を書いて、それに対してみくりが明確に応対している
せいでは無いのかと。
明確化すればそのルールに乗る事もできるし降りることもできるから。
だから今の若い人にとって逃げ恥がリアルに感じるのではないかと思います。

2016年11月12日土曜日

いいね!のテクノロジと民主主義

(0)まとめ
ネットは双方向のテクノロジである。ネット以前は直接的民主主義を
機能させる事は不可能だった。しかし、ネット以後はそれが可能になってしまった。
ネット以前は不可能だった、少数の民意をロス無く集約する事が可能になった。

意見が集約されると、人々の認知が変わる。認知が変われば行動が変わる。
社会を動かすのは人々の力である。
それにより、社会の構造も変化していくのではないか。

しかし、その際に、ネット以前の方式の民主主義(多数決の原則)をそのまま
当てはめて社会を運用するのは難しいのではないか?

結論は全くまとまっていないし、全くの問題提起であるが、以下に
実例を上げてみる。


(1)なぜ音楽聴き放題サービスのアーティストへの支払いはこんなにも少額なのか?
http://gigazine.net/news/20150320-why-spotify-pay-little/


音楽のストリーミングサービス
大手聴き放題サービスで、あるインディーズバンドの曲で支払われた金額は
月額0.9円との事。1回のではなく月額。

聴き放題サービスなので、その中で聞かれた回数の比率に応じて支払われるので、
よほど受け入れられる曲、聞かれる曲で無いとペイされない。
それはわかる。

これは、広い意味での民意ではないか。民主主義ではないか?従来型の民主主義ではないか。

ギガジンでは
「音楽などの芸術作品がすぐに評価されるとは限らず、また、人気のある作品が優れているとは限らないことも明らかです。優れた作品が多様性の中から生まれてくるという芸術作品の特性を考えたときに、公平ではあるものの露骨な「弱肉強食の世界」が広がる音楽聴き放題サービスの仕組みの中で、優れたアーティストが育っていくということは極めて難しいのかもしれません。」
と結んでいる。

それもわかる。

(2)「自分は犠牲になりたくない」自動運転車の抱える倫理ジレンマ、意見調査でも明らかに

http://www.gizmodo.jp/2016/06/moral_dilemma_of_autonomous_ca.html

自動運転カーが実用化されつつある。しかし自動運転カーをどう動かす?という
局面に立つと非常に難しい。

つまり、運転中に1人と3人とどちらかぶつかる必要があった時、自動運転カーは
どちらにハンドルを切るべきか。
プログラムだからどちらにもできる。それは自動車を作る側の意思で何にでもなる。
ではどうすべきか?1人を殺すのと3人を殺すのは?

また、運転者1人が死ぬのと歩行者10人が死ぬのをどちらを選択するのか?
オーナーは運転者が死ぬ方自動車を買うか?
売れない自動車は普及しない。消費行動はある意味での民主主義である。

自動運転カーの実用化の障害は技術ではなく、むしろ倫理だと思われる。
しかも、その倫理も民意で変わる。民意も技術の進化で変わる。
歩行者より運転者を優先する自動運転カーが売れたとする。
その事実が社会に公表されたら、その製造・販売会社は社会に受け入れられるのか?

(3)検索エンジンの歴史からみるGoogle検索アルゴリズムの変遷
http://joesbar.blog.jp/archives/1031100211.html

私の実感としては、googleの検索技術、ページランク登場以前は検索エンジンの
精度は非常に低いものだった。これがgoogle登場以後、検索が「使い物になる」
という感じになった、と記憶している。

これは基本概念としてのページランク技術、つまり
「人々から良いと評価される物は良い」
というアイデアが良かったのだと思う。
まさに、これは民意。直接型民主主義である。

しかし、これに対して技術で結果を変えるような技術も色々出てきた。
いいね、されるように見せかけるSEO技術。

多数決の技術だから、多数を抽出するテクノロジにより、色々な結論が
導かれてしまう。
選挙区を変えて選挙結果が変わる、ゲリマンダーという施策と同じ。








2016年9月18日日曜日

平成ぽこ学祭公演「今日が過去になる」観劇しました

いやいや面白かったです。

まず、ストーリー、テーマ、エピソード。
ジョージ・オーウェルの「1984」
PKディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」から沢山のオマージュ。
あと原子分解装置などはAEVヴォークトの影響も見える気がします。
自動運転車の中のシーンは、なんとなく田中芳樹の銀河英雄伝説や
アシモフの銀河帝国シリーズの中のシーンを彷彿とさせる気がしましたが、
これは気のせいか。
また原子力発電所のメタファも入っている気もして、これは柏崎人の
感覚かもしれませんが、非常に身近な感じも受けました。

そして、こういうSF的な沢山のイマジネーションが次から次へとごった煮に
なって出てきて、昔懐かしのワイドスクリーンバロックという
言葉を思い出しました。
今となっては当たり前の概念ばっかりですが、SFがマイナー文化だった頃、
30、40年前はこれらの概念が生まれたばかりでした。

その当時のキラキラとした輝きと屈折した概念が、素直に今回の
ストーリーに入ってきて、これはやはり平成生まれの作者・演者の作品
なんだなあ、と実感した次第です。
作者の山田遼太郎さんは本を沢山読まれているという事。
また高校演劇や小説も書かれているという事で納得。
もちろん、今回の作品でも、多少の齟齬や冗長さも感じました。
あと、題名と内容の繋がりがオジサン的にはよくわからなかったかも。
でも、それを上回る気持ちの強さ、主題への愛情。
気が早いですが、次回が楽しみです。


そして演技、演出。
ラストシーン泣きました。恥ずかしながら。
どの程度練習を積まれてきたかわかりませんが、役者の皆さんの演技が良いです。
前回の学内公演の時より、格段にこなれていて、テンポも良かった。
前述のストーリーも、形にしていく役者陣の力が無かったら、薄い伝わり方しか
しなかったでしょう。 そして昨日の女子☆ズも見て感じたのが、「平成ぽこ」
としてのチーム力。
もしかしたら役者の演技力だけ見れば、突出したものでは無いかもしれません。
演出方法、暗転、音響内容など実現方法なども改善の余地があるでしょう。
でも、このチーム力、そして大学祭としての場の力がすごかった。
きっとスタッフも含めて練習は盛り上がっている事でしょう。
もの凄い勢いを感じます。その勢いが本番に出てると思います。

役者さん。
皆さん良かったですが、トトイ(お母さん)の松平さんの最後の深みのある声。
そしてアスの高井さん。前回につづいて突き抜けた感がツボりました。

ともかく。
面白かったです。
2日連続で柏崎とピンポンダッシュで見た甲斐がありました。
皆さん、お疲れ様でした!

2016年6月4日土曜日

海街Diary見ました。

録画した映画見ました。

原作は途中まで読んでいて、大体知ってた。
数あるエピソードとテーマをどうまとめるか?と思ったけど
綺麗に良くまとめているのはさすが是枝監督。

当然短い時間の中で全てをお客に説明する事はできないから
わからない物はわからない、でもしっかり物語を成立させている。

私としては唯一もったいない感は豪華な脇役陣の大量投入。
当然良い芝居をしてるんだけど役者さんの色が濃すぎて
あんまり話に集中できんかった。
私がインドやヨーロッパの人間で、個々の役者を知らなかったら
「すごい!いいなー、うまいなあー」と思ったのかもしれないけど。
「あーリリーさんいい仕事してるなー」「大竹さんさすがやなあ」
的な感じになっちゃって。
これは私のプロデューサ病が問題なのかもしれないが。

興行成績上げるためには色々なキャストもいれて、という
営業的な事情もあるのかもしれないけど考えすぎかな。

当然メインキャラの綾瀬さん達は知っているんだけど、あんまり
気にはならない。これはなぜだろう?

つまり、あれかな。メインキャラは登場した時点では、「あ、綾瀬はるかだ」という
認識がされるが、物語の中で綾瀬=長女という図式がだんだん成り立って行く。

しかし脇役は登場シーンが少ないから、その役者の色がその物語の中で
キャラクターの色になっていく時間が与えられずにシーンが終わってしまう。

知らない役者はその役者の色がついていない(少なくとも私の認識の中では)
から、そのキャラクターとして認識されて、スムーズに物語の中で感情移入できる、
って事なのかな、とも思った。

これって、私達がやってる芝居にも言える事なんだよね。
うんうん。何事も勉強だな。