結局内容はどうでもいい気がしてきた。
人は所詮声高にセリフを喋りたいだけなんだろう。
そして、そのテーゼが人にうまく伝わると、というか、人にうまく伝わると、自分が納得できるような
セリフを言えればそれでいいんだろう。
人は愛されたい、認識されたい、受容されたい。
無価値で意味の無い存在である事が耐えられない。
だから声高にセリフを喋る。
例えばスポーツでもいい。
贔屓のチーム、例えば日本代表がいたら、それについて、色々言う。
そして勝ったら自分の事のように偉ぶる。
自己愛。
しかし、その愛というのも結構マユツバで、本当に自己愛なんていう物はあるのか、
という疑問もある。
実際は生ぬるいものではなく、暖かいものでもなく、もっと機械的な側面もあるのかもしれん。
人間が世の中を認識する、あるいは人間以外の動物でも同じかもしれないが、
そのためのよりどころ、座標、ものさし、となるのがワタシなのだろう。
われ思うゆえに我あり。
われ思うゆえに世界あり。
われがなくなっても世界は存在するが、世界を切り取る意識はわれという自意識がないと
世界を認識できない。
全て愛他精神、自己を全く愛する姿勢が無かったら、多分世界を認識できない。
極端な話、生きる、食う、ためには競争しなければならず、他者を自分より重く
置いたら即座に人は死ぬ。
だから人が生きていく座標軸、ものさし、が自己愛なのかもしれん。
当然、座標は一軸でなく、他者という二軸目もあるかもしれないが、
一軸目が無い二軸は無い。
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